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=== 内曲輪 === [[ファイル:Burg Himeji Gesamtplan.jpg|thumb|right|内曲輪の江戸時代の配置図]] [[ファイル:Himejijo Uchikuruwa.jpg|thumb|right|内曲輪の航空写真。{{国土航空写真}}]] [[ファイル:Himejicastle-meiji.jpg|thumb|right|取り壊し以前の桜門・太鼓櫓(明治初期)]] [[ファイル:Himeji Castle seen from north.jpg|thumb|right|姫路城を北方から望む。天守手前に姫山樹林が見える]] 内曲輪は大きく分けて本丸・二の丸・三の丸・西の丸・出丸(御作事所)・勢隠曲輪の多重構造になっている。さらに内部は、いの門・ろの門など[[いろは順]]に名付けられた門などによって水曲輪・腰曲輪・帯曲輪などの曲輪に細かく区切られている。内曲輪における櫓や門の位置関係については[[:ファイル:Himejijo Uchikuruwa.jpg|右の画像の説明文]]を参照。内曲輪には天守や櫓群などの軍事と、御殿や屋敷などの政務の中枢が置かれた。 姫山北部には樹木が生い茂る「姫山樹林」がある(後述)。この林の中には、本丸からの隠し通路の出口があるという噂があるが{{sfn|姫路城の話|1993}}、その存在は確認されていない。姫山の西を流れる[[船場川]]は、内堀に寄り添う形で流れており、堀同様の役割を果たしている。江戸時代にはその名の通り[[水運]]のために利用されていた。 ; 内曲輪の通路と門 内曲輪の通路は迷路のように曲がりくねり、広くなったり狭くなったり、さらには天守へまっすぐ進めないようになっている。本来の地形や秀吉時代の縄張を生かしたものと考えられている。門もいくつかは一人ずつ通るのがやっとの狭さであったり、また、分かりにくい場所・構造をしていたりと、ともかく進みづらい構造をしている。これは防御のためのものであり、敵を迷わせ分散させ、袋小路で挟み撃ちにするための工夫である。 たとえば、現在の登城口(三の丸北側)から入ってすぐの「菱の門」からは、まっすぐ「いの門」・「ろの門」・「はの門」の順に進めば天守への近道のように見えるが、実際は菱の門から三国濠の脇を右手に進んで石垣の中に隠された穴門である「るの門」から進むのが近い。<!--るの門は土砂で封鎖してしまえる埋門(うずみもん)でもあった。← 中曲輪の「埋門」と区別するため削除。現地説明版でも「穴門」。また、土砂で封鎖したという実例はない。不意打ち・挟撃のためのものであったとも考えられる。-->「はの門」から「にの門」へ至る通路は守り手側に背を向けなければ進めない。「ほの門」は極端に狭い鉄扉である。その後は天守群の周りを一周しなければ大天守へはたどり着けないようになっている。「はの門」へ続く坂道は「将軍坂」と呼ばれている<ref>{{Cite web|和書|title=姫路城【日本の世界遺産】 |url=http://www.jalan.net/theme/isan/himeji/ |work=じゃらんnet |publisher=株式会社リクルートライフスタイル |accessdate=2021-08-28 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20170203010948/http://www.jalan.net/theme/isan/himeji/ |archivedate=2017-02-03}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=姫路城(点景写真) |url=http://www.city.himeji.lg.jp/topic/photobank/_18123/_18406.html |publisher=姫路市 |accessdate=2021-08-28 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20090831101103/http://www.city.himeji.lg.jp/topic/photobank/_18123/_18406.html |archivedate=2009-08-31}}</ref>。 「菱の門」は[[伏見城]]から移されたという伝承があり、長押形の壁に[[火灯窓]]を配した古式な姿を残している。また、「との一門」は[[置塩城]]から移築したという伝承があり、壁が板張りであって、門の下側にいる敵を弓矢や[[槍]]などで攻撃できる「石落し」がないなど古風な様式で、城内に現存する門の中でも異色の存在である。 <gallery> ファイル:Kiri Ni No Mon 02.jpg|現在の大手門(桐二の門) ファイル:Kitasegakushi-mon-gate.jpg|北勢隠門の石垣 ファイル:Minamisegakushi-mon-gate.jpg|南勢隠門の石垣 ファイル:Kisai-mon-gate.jpg|喜斎門の石垣 ファイル:Hattou-mon-gate.jpg|八頭門の石垣 ファイル:Himeji kisaimon gate 2.JPG|喜斎門石垣(内側) ファイル:Himeji castle06 1024.jpg|にの門 ファイル:Himeji castle07 1024.jpg|にの門(内部) ファイル:Himeji castle02 1024.jpg|ホの櫓 ファイル:Himeji castle05 1024.jpg|との一門 ファイル:Himeji Castle No09 163.jpg|折廻櫓と備前門 </gallery> ==== 本丸 ==== [[ファイル:Himeji Castle on time in evening.jpg|thumb|right|姫路城北西にある[[男山]]から。中央奥に大天守、左に東小天守、中央手前に乾小天守、右に西小天守。]] [[ファイル:Himeji Castle No09 152.jpg|thumb|right|連立天守群の中心部]] [[ファイル:Himeji-castle-taiko-yagura.jpg|thumb|upright|太鼓櫓と石垣。]] ; 天守丸・備前丸 天守丸は連立した天守群によって構成され、天守南の備前丸には御殿や対面所があり池田氏時代には政務の場であった。御殿や御対面所などは明治時代に焼失している。 姫路城の[[天守]]は江戸時代のままの姿で現在まで残っている12の[[現存天守]]の一つで、その中で最大の規模を持つ、まさしく姫路の象徴といえる建物である。姫路城の天守群は姫山(標高45.6[[メートル|m]])の上に建っており、大天守自体の高さは、石垣が14.85m、建造物が31.5mなので合計すると海抜92mになる<ref name="shisei9" />。天守の総重量は、現在はおよそ5,700[[トン|t]]である。かつては6,200tほどであったとされるが、「昭和の大修理」に際して過去の補修であてられた補強材の撤去や瓦などの軽量化が図られた。天守内には姫路城にまつわる様々な物品が展示されていたが平成の大修理後は展示物を西の丸に移し、天守内部は何もない素のままの姿になっている。 姫路城の最初の天守は[[1580年]](天正8年)の春、羽柴秀吉によって姫山の頂上、現在の大天守の位置に3重で建てられた。この天守は[[池田輝政]]により解体され、用材は乾小天守に転用された。 2代目の天守は池田輝政により建てられ、5重6階天守台地下1階(計7階)の'''大天守'''と3重の小天守3基('''東小天守'''・'''西小天守'''・'''乾小天守''')、その各天守の間を2重の渡櫓で結んでいる「[[天守#連立式|連立式天守]]」<ref group="注釈">[[現存天守#現存12天守|現存12天守]]では[[松山城 (伊予国)|松山城]]([[伊予国]])が同じ構成である。</ref>である。天守は全て2重の[[入母屋造]]の建物を基部とする望楼型で、建設時期や構成からさらに[[天守#望楼型|後期望楼型]]に分類されることもある。壁面は全体が白漆喰総塗籠(しろしっくい そうぬりごめ)の[[大壁|大壁造]]で造られており、防火・耐火・[[鉄砲]]への防御に加え、美観を兼ね備える意図があったと考えられている。折廻櫓には編目格子が施されている。 ;水曲輪・腰曲輪 天守の下は岩盤で井戸が掘れず、そのため天守と腰曲輪の間の補給の便のため水曲輪を設け、「水一門」から「水五門」までの門を設けている。 天守の北側にある腰曲輪(こしくるわ)には、籠城のための井戸や米蔵・塩蔵が設けられている。なお平時に用いる蔵は姫山の周囲に設けられていた。腰曲輪の中、ほの門内側、水一門脇に5.2[[メートル|m]]分だけ、油塀(あぶらべい)と呼ばれる塀がある。白漆喰で塗られた土塀ではなく、真壁造りの[[築地塀]]である。製法については油、もしくはもち米の煮汁を壁材に練りこんだと考えられている<ref name="つくり方">三浦正幸著『城のつくり方図典』小学館 2005年</ref>。理由については、秀吉時代の遺構という説がある<ref name="no1"/>が、防備の上で特に高い塀を必要としたという説<ref name="つくり方"/>もある。 <gallery> ファイル:Himeji Castle No09 156.jpg|御対面所の石垣 ファイル:Himejicastle-koshikuruwa.jpg|腰曲輪の「ハの渡櫓」(連立天守の「ハの渡櫓」とは別の建物) ファイル:Himeji castle03 960.jpg|腰曲輪の油壁 </gallery> ===== 大天守 ===== ;外観意匠 [[ファイル:Himejicastle-shachihoko.jpg|thumb|right|姫路城歴代の鯱]] [[ファイル:Himeji Castle No09 151.jpg|thumb|upright|大天守西面(右)と北面(左)]] 外観は最上部以外の壁面は[[大壁]]塗りで、屋根の意匠は複数層にまたがる巨大な入母屋[[破風]]に加えて、緩やかな曲線を描く唐破風(からはふ)、山なりの千鳥破風(ちどりはふ)に[[破風#懸魚|懸魚]]が施され多様性に富んでいる。最上階を除く窓はほとんどで格子がはめ込まれている。 * 初重目 - 方杖付きの腰屋根を四方に、東面中央に軒唐破風と下に幅4間の出格子窓(でごうしまど)、北東・南東・南西の隅に[[石落とし]]を設置している。 * 2重目 - 南面中央に軒唐破風と下に幅5間の出格子窓を設けている。東西に3重目屋根と交わる大入母屋破風を設置している。 * 3重目 - 南面・北面に[[比翼入母屋造|比翼入母屋]]破風、2重目から大入母屋破風が交わっている。 * 4重目 - 南面・北面に千鳥破風、東面・西面に軒唐破風 * 5重目 - 最上部。南北に軒唐破風、東西に入母屋屋根、壁面は他の壁面とは違って柱などが浮き出る[[真壁 (建築)|真壁]]になっている。 ; 内部構造 各階の床と屋根は天守を支えるため少しずつ逓減され、荷重を分散させている。大天守の心柱は東西方向に2本並んで地下から6階床下まで貫き、太さは根元で直径95[[センチメートル|cm]]高さ24.6mの木材が使用されている。うち、西大柱は従来の材が継がれたものであったため一本材に取り替えようとしたが、その際に折れてしまったので3階床下付近で継いでいる。東西の旧大柱は、目通りは東大柱十尺、末口は五尺三寸の杉木材。西大柱も同様の木材ではあるが三重目あたりで松に継いであり、根元から二尺の継ぎ目に補修した「貞享四年丁卯の六月」の墨書きがあった。その他の柱用材は[[ケヤキ|欅]]・[[マツ|松]]・[[犬桜]]など堅い樹種を二寸角にして使用している<ref>『姫路城案内』十頁「大天守の地階」</ref>。敷居・鴨居は一尺二寸幅で[[舞良戸]]をはめていたが現在は[[建具]]は取り付けられていない。 * 地下 - 東西約11間半・南北約8間半。穴蔵と呼ばれている。[[簀の子]]の洗い場(流し台)と台所を付属させ、[[便所|厠]]を3箇所設置している。武家の世界では多くの城で鬼門方位に厠をつくることが当時は常道とされていた、当城も裏鬼門に厠が配されていたとされ{{Sfn|小池康寿|2015|p=20}}、鬼神の災いを恐れず覚悟を持った[[武将]]の気構えと捉えることができると述べている{{Sfn|小池康寿|2015|p=21}} * 1階 - 東西約13間・南北約10間。北側に東小天守と接続するイの渡櫓、西側に西小天守と接続するニの渡櫓。 * 2階 - 1階とほぼ同様の構造。地下から2階は身舎の周りに[[犬走り#城郭の犬走り|武者走り]]を廻し、[[鉄砲]]や[[槍]]などが掛けられる武具掛が付けられている。 * 3階 - 東西11間・南北8間。武者走りがあるが、それに加えて破風部屋と武者隠(むしゃがくし)と呼ばれる小部屋が数箇所設けられている。また、石打棚(いしうちだな)という中段を窓際に設けて、屋根で高い位置に開けられた窓が使えるように高さを補っている。 * 4階 - 東西9間・南北6間。3階同様に[[塀 (城郭)#土塀|石打棚]]がある。武具掛けのある比翼入母屋破風の間が南北に2箇所ずつ(計4箇所)ある。 * 5階 - 東西9間・南北6間。大広間一室で4重目の屋根裏部屋に相当する。大柱はこの階の天井まで通っている。 * 6階 - 最上階。東西7間・南北5間。一段高い[[身舎]]周囲に[[入側]]を巡らしている。部屋の中央に柱を立てず、[[書院造]]の要素を取り入れ[[長押]]や[[天井|棹縁天井]]など書院風の意匠を用いている。[[長壁神社]]が[[分霊|分祀]]されている。[[頼山陽]]が詠んだ漢詩も展示されている。”五畳の城楼 晩霞を挿む 瓦紋 時に見る 桐花を刻するを 兗州 曽つて啓く 阿瞞の業 淮鎮 興すに堪えたり 匡胤の家 甸服 昔時 臂指に随い 勲藩 今日 喉牙を扼す 猶思う 山陰道を 経略せしを 北 因州に走る 路叉を作す”。 <gallery> ファイル:Inside the Main Tower (2856041800).jpg|大天守内廊下 ファイル:Himeji Castle No09 102.jpg|洗い場(流し台) ファイル:Château de Himeji03.jpg|石打棚 ファイル:Himeji Castle No09 116.jpg|武具掛 </gallery> ===== 小天守・渡櫓 ===== [[ファイル:Himeji Castle No09 145.jpg|thumb|right|東小天守1階内部]] [[ファイル:Himeji Castle No09 099.jpg|thumb|upright|ニの渡櫓と水の五門]] 3基の小天守の最上階は蟻壁長押、竿縁猿頬天井の[[書院造|書院]]風意匠になっている。釣鐘のような形の[[火灯窓]]を西小天守と乾小天守の最上階に多用している。火灯窓は同様の後期望楼型天守である[[彦根城]]天守や[[松江城]]天守などにも見られる。乾小天守の火灯窓には、「物事は満つれば後は欠けて行く」という考え方に基づき未完成状態(発展途上状態)を保つため格子を入れていないという。火灯窓は昭和の修理が終わるまで漆喰で塗られて見えなかった。 ; 東小天守 3重3階・地下1階で天守丸の北東に位置する。西小天守や乾小天守のような火灯窓や軒唐破風はない。建設当初は丑寅櫓(うしとらやぐら)と呼ばれていた。 ; 乾小天守 3重4階・地下1階で天守丸の北西に位置する。建設当初は乾櫓(いぬいやぐら)と呼ばれていた。秀吉が築城した三重天守であったという説があり「昭和の大修理」では秀吉時代の木材が転用された事が分かっている<ref name="#2">『日本名城図鑑―同一縮尺で見る城郭規模の比較』姫路城の項</ref>。 ; 西小天守 3重3階・地下2階で天守丸の南西に位置する。水の六門が付属している。建設当初は未申櫓(ひつじさるやぐら)と呼ばれていた。[[2002年]](平成14年)、西小天守の修理が完了した<ref>{{Cite web|和書|title=お城インフォメーション 徹底検証 姫路城大天守保存修理事業 45年ぶりの本格修理、いよいよ着工間近 |url=http://www.city.himeji.lg.jp/event/newsletter/vol_36/oshiro-info/index.html |publisher=姫路市 |accessdate=2021-08-28 |archiveurl=https://web.archive.org/web/123926/http://www.city.himeji.lg.jp/event/newsletter/vol_36/oshiro-info/index.html |archivedate=2015-02-10}}</ref>。 ; イ・ロ・ハ・ニの渡櫓 大天守と各小天守を連結している渡櫓。イ・ロ・ハの渡櫓はいずれも2重2階・地下1階、ニの渡櫓は水の五門が付属して2重2階の櫓門になっている。天守群と渡櫓群で囲まれた内側に台所櫓があり大天守地階とロの渡櫓1階を繋いでいる{{Sfn|姫路城の基礎知識|2009|loc=天守}}。 ==== 二の丸 ==== 秀吉時代の縄張りを活かした雛壇状の作りになっており通路は迷路のように入り組んでいる。 ; 三国堀 : 姫山と鷺山の間にあった谷を利用して作られた捨て堀で輝政の所領、[[播磨国|播磨]]・[[淡路国|淡路]]・[[備前国|備前]]の三国に由来する。姫山と鷺山から流れた雨水を濾過する役割があったとも、秀吉の時代は空堀であったともいわれている{{Sfn|姫路城の基礎知識|2009|loc=堀}}<ref>『姫路城案内』二頁「三国堀」</ref>。 ; 菱の門 [[ファイル:Himeji castle04 1024.jpg|thumb|right|菱の門]] : 二の丸入口にある櫓門で現在では正面登閣口から入って最初に通る門。西側にある石垣と土塀で[[虎口#枡形虎口|枡形虎口]]を形成し門の片側が石垣に乗る変則的な櫓門で、西側部分に番所詰所、東側部分に馬見所がある。城内の現存の門では唯一、柱・[[組物#基本的分類|舟肘木]]・長押を表面に出した[[真壁造り]]で安土桃山時代の意匠を残している。櫓二階部分の中央に黒漆と金箔<!--金(きん)の金具?-->で装飾された格子窓と両側に同じ装飾の火灯窓、その右手に庇出格子窓がある{{Sfn|姫路城の基礎知識|2009|loc=門}}。門名は[[冠木]]に木製の[[唐花紋|唐花]]模様が装飾されている事や築城以前に流れていた菱川に由来する<ref>『姫路城案内』二頁「菱の門」</ref>。 ; 帯曲輪(腹切丸) [[ファイル:Himejijo harakirimaru.jpg|thumb|right|帯郭櫓(腹切丸)]] : 天守の南東にある[[曲輪#曲輪の用途|帯曲輪]](おびくるわ)は城の防御において射撃などを行う場所として築かれた。帯郭櫓は2重2階で1階2階ともに3部屋に区切られ、1階には石打棚がある。帯の櫓は1重1階(地下1階)で約23mの石垣の上にコの字型に建てられている。外側から見ると平櫓であるが地下に井戸があるため内側からは2重の多門櫓に見える。内部は座敷部屋や[[床の間]]も設けられている。[[櫓 (城郭)#用途による種類|太鼓櫓]]は1重1階で折れ曲がり西・南・北の3部屋がある。歪みのある石垣上に建てられたため西部屋は傾斜がある。江戸時代は「への櫓」と呼ばれた{{Sfn|姫路城の基礎知識|2009|loc=建造物配置図}}。太鼓櫓の西側には「りの門」があり帯曲輪と上山里曲輪を区切っている。「りの門」は脇戸付[[高麗門]]で「慶長四ねん大工五人」と書かれた墨書が発見されており、解体や移築の痕跡もなく[[木下家定]]の時代の建築と判明している。 :帯曲輪が俗に「腹切丸」と呼ばれる由来としては、建物の形状やその薄暗い雰囲気などから切腹の場を連想させることにより呼ばれるようになったと見られているが、実際の刑場は大蔵前町北部(現在の塩町西部)の牢獄<ref name=":3">{{Cite web |url=https://www.city.himeji.lg.jp/kanko/cmsfiles/contents/0000002/2172/20.pdf |title=文化財見学シリーズ20 『船場』をたずねて |accessdate=2024-04-06 |publisher=姫路市教育委員会文化財課}}</ref>や市川の河原<ref name=":4">{{Cite web |url=https://www.city.himeji.lg.jp/kanko/cmsfiles/contents/0000002/2172/24.pdf |title=文化財見学シリーズ24 『城東地区』をたずねて |accessdate=2024-04-06 |publisher=姫路市教育委員会文化財課}}</ref>に置かれていた。藩主の屋敷付近や井戸付近では実際に[[切腹]]が行われたことは考えにくいという<ref>{{Cite web|和書|title=雑学・姫路城 |url=http://www.city.himeji.lg.jp/guide/castle/various.html |publisher=姫路市 |accessdate=2021-08-28 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20080408020837/http://www.city.himeji.lg.jp/guide/castle/various.html |archivedate=2008-04-08}}</ref>。 ; 上山里曲輪 * ぬの門 - 脇戸付きの鉄板張り二重櫓門。一層目は鉄格子窓、二層目は出格子窓。東側石垣に巨石を置き鏡石としている。 * 「お菊井戸」と呼ばれる井戸が現存し石碑も建っているが、本来は「釣瓶取(つるべとり)の井戸」と呼ばれていたものである。帯曲輪櫓の「腹切丸」共々、大正時代の姫路城一般公開以後にそう呼ばれるようになったもので、それ以前は中曲輪東北端にある桐の馬場(現・[[兵庫県立姫路東高等学校]]や[[国立病院機構姫路医療センター]]の東裏手付近)に有った井戸がお菊の井戸だとされていた<ref>{{Cite web|和書 |url=https://rekihaku.pref.hyogo.lg.jp/digital_museum/legend3/story1/journey1/ |title=ひょうご伝説紀行 - 妖怪と自然の世界 - 『播州皿屋敷』を訪ねて |accessdate=2023-10-30 |publisher=兵庫県立歴史博物館}}</ref>。 ==== 三の丸 ==== [[ファイル:Himejijo sannomaru.jpg|thumb|right|三の丸広場]] [[ファイル:Himejicastle-musashinogoten-ato.jpg|thumb|right|千姫が居住した武蔵野御殿の跡]] 江戸時代、三の丸西側には三の丸御殿や屋敷があり本城(御居城)と呼ばれ、東側には向屋敷と庭園があり本多氏以降の政務の中心の場であった。 本城の三の丸御殿には、 * 大広間(鶴之間):151畳 * 虎之間:36畳 * 雁之間:23畳半 * 蜜柑之間:40畳 * 小書院:70畳 * 新書院4:7畳半 * 装束の間:18畳 * 評定之間:43畳半 * 時計之間:25畳 * 勝手之間:52畳 * 御使者の間:12畳 * 用人詰所:12畳 * 他に御居間、能舞台、湯殿、便所、台所 などの御殿建築があった<ref>『池田光政公伝 上巻』百九十三頁</ref><ref name="oshiro-info_29" />。又、三の丸御殿大広間・虎の間には、名古屋城本丸御殿や金沢城二の丸御殿表向のような豪華な障壁画、彫刻、金箔張りであった。 東側の向屋敷には[[回遊式庭園|池泉式庭園]]・[[築山]]・[[茶室]]が設けられ、北側には御用米蔵や上三方蔵があった。[[本多忠刻]]・[[千姫]]夫妻が居住していた武蔵野御殿は金箔や銀箔を張った[[戸襖]]に千姫が幼少のころに過ごした[[武蔵野]]を偲んで一面に[[緑青]]で[[ススキ]]の絵が描かれていたことに由来する<ref name="oshiro-info_29" />。三の丸からは西の丸の石垣下にある鷺山口門が内堀に通じていた。江戸時代の建物や庭園は明治時代に取り壊され現存していない。[[1998年]](平成10年)、姫路藩主・本多家の家老であった中根家の子孫宅から第二次本多時代([[1682年]](天和2年)、[[本多忠国]]から[[1704年]](宝永元年)、[[本多忠孝]]まで)の姫路城内曲輪を詳細に描いた『播州姫路城図』が発見された<ref>[http://www.city.himeji.lg.jp/jyokakuken/issue/zuroku/ 姫路城絵図展図録-雄藩姫路の城下と城郭-]{{リンク切れ|date=2021年8月}}</ref>。この絵図から[[兼六園]]のように広くはないが三の丸・向屋敷にも[[大名庭園]]があったことが分かるなど、失われた御殿や屋敷など往時の様子を偲ばせる貴重な史料となった。 [[1939年]](昭和14年)4月、旧制の姫路市立鷺城中学校(現[[姫路市立姫路高等学校]])が設置されたが[[1945年]](昭和20年)の[[姫路空襲]]で焼失<ref>{{Cite web|和書|title=姫路市立鷺城中学校(旧制)の写真52枚見つかる~戦時下に創立、空襲に焼け落ちた悲運の学舎(まなびや)~ |url=http://www.city.himeji.lg.jp/koho/press/_28474/_28858/_29025.html |publisher=姫路市 |date=2013-03-15 |accessdate=2021-08-28 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20150107074944/http://www.city.himeji.lg.jp/koho/press/_28474/_28858/_29025.html |archivedate=2015-01-07}}</ref>、焼け残りの兵舎などを利用して授業を再開したが移転し、[[1947年]](昭和22年)、三の丸に[[野球場]]と[[相撲]]場が建設された。野球場は「三の丸球場」ないし「姫路城内球場」と呼ばれ一日だけプロ野球公式戦が変則ダブルヘッダーで行われたが、[[1952年]](昭和27年)には城外すぐそばに本町野球場(現在の大手門駐車場、1988年閉場)が造られておりプロ野球の開催はこの一日のみであった<ref name="#1"/>。現在は三の丸跡のうち本城跡が千姫ぼたん園に、向屋敷跡が三の丸広場に整備されている。三の丸広場は市民の憩いの場となっており、[[花見]]や各種のイベントスペースとしても使用されている。三の丸の東部と東側に位置する出丸(御作事所)は姫路動物園の一部になっている。 [[2014年]](平成26年)11月6日、姫路市教育委員会が三の丸の発掘調査で大手から菱の門前まで通じる南北200m、幅21mの三の丸大路の跡や礎石の跡などを確認したと発表した<ref>{{Cite web|和書|title=特別史跡姫路城跡(三の丸大路)発掘調査現地説明会を開催します |url=http://www.city.himeji.lg.jp/koho/press/_30718/_32738/_32910.html |publisher=姫路市 |accessdate=2021-08-28 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20160202040013/http://www.city.himeji.lg.jp/koho/press/_30718/_32738/_32910.html |archivedate=2016-02-02}}</ref><ref>{{cite news|title=姫路城跡「三の丸大路」跡を確認 江戸期の道幅は21メートル |url=https://www.sankei.com/article/20141107-ZIWZ6ETZP5NNHG2EJOQFRMKAEY/ |newspaper=産経ニュース |date=2014-11-07 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20210828120223/https://www.sankei.com/article/20141107-ZIWZ6ETZP5NNHG2EJOQFRMKAEY/ |archivedate=2021-08-28}}</ref><ref>{{cite news|title=姫路城「三の丸大路」の遺構発見 登城への南北通路 |url=http://www.kobe-np.co.jp/news/bunka/201411/0007481875.shtml |newspaper=神戸新聞 |date=2014-11-06 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20141112152338/http://www.kobe-np.co.jp/news/bunka/201411/0007481875.shtml |archivedate=2014-11-12}}</ref>。また三の丸西にあった御居城への通路の幅も約8mと分かった。『播州姫路城図』に描かれていた当時の様子が明らかになりつつある。9日に現地説明会が行われた。 ;下山里曲輪 :三の丸北部、二の丸の上山里曲輪の南側下段にある曲輪。西側から南側の石垣に土塀が築かれ東側に門があった。[[1955年]](昭和30年)までは「下山里展望台」となっていた。その後の「昭和の大修理」の時に発見された墓石・石像などが祀られ、春と秋の[[彼岸]]、[[お盆|旧盆]]には[[正明寺]]と姫路城を守る会によって供養が行われている。 ;大手門(桜門) :現在「大手門」と呼ばれている大型の[[高麗門]]は[[1937年]](昭和12年)に「桐二の門」があった場所に再建した門で江戸時代の意匠とは異なる<ref name="#2"/>。本来の大手口は入り口から桜門・桐二の門・桐一の門と続き、それらを三重の太鼓櫓・多聞櫓・ねの櫓で囲み、6回曲がらなければ天守方面へ行けない厳重な二重枡形を形成していたが、建物は明治時代の陸軍設置の際に取り壊されて現存しない。[[2007年]](平成19年)に桜門橋を復元している<ref>{{Cite web|和書|title=姫路公園のご案内 桜門橋 |url=https://www.city.himeji.lg.jp/kanko/0000004673.html |publisher=姫路市 |accessdate=2021-08-28 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20210127235201/https://www.city.himeji.lg.jp/kanko/0000004673.html |archivedate=2021-01-27}}</ref><ref>[https://web.archive.org/web/20150402105435/http://www.geocities.jp/uki_3xm01/99_blank030.html 桜門橋の発掘・復元工事]{{リンク切れ|date=2021年8月}}</ref>。 ==== 西の丸 ==== 西の丸は[[本多忠政]]が[[伊勢国|伊勢]][[桑名藩|桑名]]から移ってきた時に整備・拡張された曲輪。北端に位置する化粧櫓及び櫓群と、これらを結ぶ渡櫓(長局)が残っている。これら渡櫓は西の丸整備を命じた幕府老中連判状に特に明記されている。 ;渡櫓(長局) :渡櫓の城外側は幅1間の廊下が「カの渡櫓」から「レの渡櫓」まで長さ約121間(約240m)に渡って連なっており「百間廊下」と呼ばれている。城外に向けて[[石落とし]]や[[狭間]]、鉄砲の煙出しの窓も付設されている。城内側は[[侍女]]達の部屋があり主室と付属室などに区分され長局を構成している<ref name="oshiro-info_29" />。昭和の大修理の際に、草花模様で彩色した痕跡のある柱が発見されている。 ;化粧櫓 :化粧櫓は、[[千姫]]が忠政の嫡男・[[本多忠刻|忠刻]]に輿入れする際の[[化粧田|化粧料]]10万石で[[1618年]](元和4年)に建てられたものである。外観は二重二階、内部は畳が敷かれた座敷部屋が3室に区分され[[床の間]]がある奥御殿になっている<ref group="注釈">天守南東部の「帯の櫓」にも座敷・床の間がある。</ref>。戦前の修理までは、化粧櫓にはその名の通り当時の化粧品の跡が残っていたという。 千姫は西の丸内に設けられた中書丸<ref group="注釈">忠政の息子で千姫の夫、忠刻の役職「中務大輔(唐名中書)」に由来する。</ref>(天樹院丸<ref group="注釈">千姫の号「天樹院」に由来する。</ref>)と三の丸脇の武蔵野御殿に住んでいたが、いずれも現在は失われている。 [[ファイル:Himejijou castle grounds.jpg|thumb|640px|none|姫路城天守から西の丸を望む。]] <gallery> ファイル:Himeji Castle No09 049.jpg|化粧櫓 ファイル:Himeji Castle No09 028.jpg|ルの櫓とヨの渡櫓 ファイル:Himeji Castle No09 033.jpg|ヨの渡櫓の通路 ファイル:Himeji Castle No09 035.jpg|カの渡櫓の侍女部屋 ファイル:Himejicastle-ishiotoshi2.jpg|西の丸櫓内の石落としと狭間 Himejicastle-wa-ka-no-yagura.jpg|本城跡から見た西の丸にあるワの櫓・カの櫓・土塀。 ファイル:Himeji-jō sakura3.jpg|西の丸から望む天守 </gallery> ==== 勢隠曲輪 ==== 天守東部の搦め手から北部一帯の広い曲輪で喜斎門・八頭門・北勢隠門・南勢隠門で仕切られていたが、いずれの門も建築物は無く石垣が残っている。内堀に面する北側は屏風折れに石垣が組まれ死角を少なくしている。「ゐの櫓」・内船場蔵・下三方蔵があった。[[酒井忠実]]の時代にはこの曲輪内で[[南部藩]]の[[日本在来馬|南部馬]]を飼育していた<ref>『姫路城案内』四十三頁「南勢隠門」</ref>。東端区域は[[姫路神社 (姫路市)|姫路神社]]になっている。大正時代に一般公開されてから終戦までは搦め手の登城口から入城していた。勢隠曲輪と三の丸は本来は繋がっていなかったが、[[1933年]](昭和8年)、三の丸東部の内船場蔵と喜斎門南の下三方蔵を繋ぐ通路が整備され、[[1957年]](昭和32年)に拡幅した。[[2017年]]([[平成]]29年)の石垣修復による調査で竪堀の跡や新たな刻印の発見などがあった<ref>{{cite news|title=姫路城で江戸初期の石垣発見 一部には刻印確認 |url=https://www.sankei.com/article/20170125-DLEDKHHYLVOAZMRW3Q24W62POA/ |newspaper=産経ニュース |date=2017-01-25 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20210828121738/https://www.sankei.com/article/20170125-DLEDKHHYLVOAZMRW3Q24W62POA/ |archivedate=2021-08-28}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=本日は、姫路城の上山里曲輪東側通路および内船場蔵南石垣の調査と修理の現場を見学 |url={{Twitter status|yoshi_nara|827436229134209024}} |author=千田嘉博 |accessdate=2021-08-28}}</ref>。
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