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[[川崎市]][[高津区]]生まれ。幼少期はよく溝の口のノクティーでお買い物をしていたという。[[神奈川県立弥栄高等学校|神奈川県立弥栄西高等学校]]から[[仙台大学]]に進学し、[[ユニバーシアードサッカー競技|ユニバーシアード]]代表にも選出された経歴を持つ。


[[1999年]]に[[ジュビロ磐田]]に入団したが出場機会を得られず、[[2000年]]9月に地元の川崎フロンターレに移籍<ref>{{Cite press release|title=箕 輪 義 信 選手 川崎フロンターレへ移籍のお知らせ|url=|publisher=ジュビロ磐田|date=2000-09-14|accessdate=2017-10-29|archiveurl=https://web.archive.org/web/20010215091031fw_/http://www.jubilo-iwata.co.jp:80/Wn/wn0009/press/00091423.html|archivedate=2001-02-15}}</ref>、[[2001年]]シーズンからはレギュラーに定着し、守備陣の要として活躍した。
[[1999年]]に[[ジュビロ磐田]]に入団したが出場機会を得られず、[[2000年]]9月に地元の川崎フロンターレに移籍<ref>{{Cite press release|和書|title=箕 輪 義 信 選手 川崎フロンターレへ移籍のお知らせ|url=http://www.jubilo-iwata.co.jp:80/Wn/wn0009/press/00091423.html|publisher=ジュビロ磐田|date=2000-09-14|accessdate=2017-10-29|archiveurl=https://web.archive.org/web/20010215091031fw/http://www.jubilo-iwata.co.jp:80/Wn/wn0009/press/00091423.html|archivedate=2001-02-15}}</ref>、[[2001年]]シーズンからはレギュラーに定着し、守備陣の要として活躍した。


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[[2005年]]8月の[[東アジアサッカー選手権|東アジア選手権]]での[[サッカー日本代表|日本代表]]入りが内定していたが、[[突発性難聴]]を患ったことにより辞退。その後、10月の東欧遠征のメンバーに選出。フィールドプレイヤーでは史上最高齢での初代表(当時、後に[[寺田周平]]が更新)として話題になった。しかし、唯一の出場となった[[サッカーウクライナ代表|ウクライナ]]戦では、試合終了間際に微妙な判定ながら相手に[[ペナルティーキック|PK]]を献上するファウルを取られ、代表戦は不完全燃焼に終わった。
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なお現役最後の試合となった2008年9月20日の[[ジェフ千葉]]戦の前半14分に[[退場]]処分を受けているが、これは彼の現役[[プロ]]生活の中で唯一の退場判定となった。
なお現役最後の試合となった2008年9月20日の[[ジェフ千葉]]戦の前半14分に[[退場]]処分を受けているが、これは彼の現役[[プロ]]生活の中で唯一の退場判定となった。


引退後は体育教師となり、2012年4月より[[神奈川県立新城高等学校]]に赴任した<ref>{{cite web|url=http://www.townnews.co.jp/0204/2012/05/25/145439.html|title=箕輪 義信さん | 中原区|work=[[タウンニュース社]]|date=2012.5.25|accessdate=2013.9.21}}</ref>。
引退後は体育教師となり、2012年4月より[[神奈川県立新城高等学校]]に赴任した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.townnews.co.jp/0204/2012/05/25/145439.html|title=箕輪 義信さん | 中原区|work=[[タウンニュース社]]|date=2012.5.25|accessdate=2013.9.21}}</ref>。2017年より[[神奈川県立菅高等学校]]に赴任


== 特徴・評価 ==
== 特徴・評価 ==
屈強なフィジカルと187cmの長身を生かした空中戦が強みで、現役時代には試合中に箕輪とぶつかった相手選手が担架で運ばれてしまうこともしばしば起きた。味方の[[セットプレー]]時には貴重な得点源となった。また、長身ながら体の柔らかさを生かしたロングスローも得意で相手ゴール前のスローインの場面では、前線に張らず、自らロングスローでボールを放り投げることもあった。
屈強なフィジカルと187cmの長身を生かした空中戦が強みで、現役時代には試合中に箕輪とぶつかった相手選手が担架で運ばれてしまうこともしばしば起きた。味方の[[セットプレー]]時には貴重な得点源となった。また、長身ながら体の柔らかさを生かしたロングスローも得意で相手ゴール前のスローインの場面では、前線に張らず、自らロングスローでボールを放り投げることもあった。
強靭なプレーで当たり負けもせず、チームを勝利に導くプレーが頭と同時に光っていた


== 所属クラブ ==
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===出場===
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== 外部リンク ==
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[[Category:川崎市出身の人物]]
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[[Category:1976年生]]
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2024年8月31日 (土) 11:53時点における最新版

箕輪義信
名前
愛称 ミノ 箕輪 ペップ
カタカナ ミノワヨシノブ
ラテン文字 MINOWA Yoshinobu
基本情報
国籍 日本の旗 日本
生年月日 (1976-06-02) 1976年6月2日(48歳)
出身地 神奈川県川崎市
身長 187cm
体重 83kg
選手情報
ポジション DF
利き足 右足
ユース
1992-1994 日本の旗 弥栄西高校
1995-1998 日本の旗 仙台大学
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1999-2000 日本の旗 ジュビロ磐田 0 (0)
2000-2008 日本の旗 川崎フロンターレ 244 (17)
2008 日本の旗 コンサドーレ札幌 12 (0)
2009-2010 日本の旗 コンサドーレ札幌 0 (0)
通算 256 (17)
代表歴2
2005[1] 日本の旗 日本 1 (0)
1. 国内リーグ戦に限る。2010年12月7日現在。
2. 2005年10月12日現在。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

箕輪 義信(みのわ よしのぶ、1976年6月2日 - )は、神奈川県川崎市出身の元プロサッカー選手ポジションディフェンダー

来歴

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川崎市高津区生まれ。幼少期はよく溝の口のノクティーでお買い物をしていたという。神奈川県立弥栄西高等学校から仙台大学に進学し、ユニバーシアード代表にも選出された経歴を持つ。

1999年ジュビロ磐田に入団したが出場機会を得られず、2000年9月に地元の川崎フロンターレに移籍[2]2001年シーズンからはレギュラーに定着し、守備陣の要として活躍した。

2005年8月の東アジア選手権での日本代表入りが内定していたが、突発性難聴を患ったことにより辞退。その後、10月の東欧遠征のメンバーに選出。フィールドプレイヤーでは史上最高齢での初代表(当時、後に寺田周平が更新)として話題になった。しかし、唯一の出場となったウクライナ戦では、試合終了間際に微妙な判定ながら相手にPKを献上するファウルを取られ、代表戦は不完全燃焼に終わった。

2007年末からグロインペイン症候群に悩まされ、リハビリを決断し2008年は戦線を長期離脱。復帰後も出場機会に恵まれなかったが、降格圏内に沈んでいたコンサドーレ札幌へ即戦力との期待を受けレンタル移籍、12試合に出場したが力及ばずJ2降格となった。また北海道チャンピオンズスーパーリーグにおいて右足腓腹筋断裂・全治3~4ヶ月との診断を受ける負傷で、復帰することなくシーズンを終えた。怪我の回復は長期化する見込みであったが、札幌は2009年の契約を敢行し完全移籍、7年間所属した川崎を離れる。この年から札幌に監督として招聘された川崎時代の恩師である石崎信弘の下で再びプレーするはずであったが、アキレス腱を4度も手術するなど怪我が回復せず、2009年2010年と2年間1試合も出場することなく契約期間満了でチームを去ることになった。2011年は所属チームがなく、2011年9月23日、所属元の札幌から現役引退が発表された[3]。 なお現役最後の試合となった2008年9月20日のジェフ千葉戦の前半14分に退場処分を受けているが、これは彼の現役プロ生活の中で唯一の退場判定となった。

引退後は体育教師となり、2012年4月より神奈川県立新城高等学校に赴任した[4]。2017年より神奈川県立菅高等学校に赴任。

特徴・評価

[編集]

屈強なフィジカルと187cmの長身を生かした空中戦が強みで、現役時代には試合中に箕輪とぶつかった相手選手が担架で運ばれてしまうこともしばしば起きた。味方のセットプレー時には貴重な得点源となった。また、長身ながら体の柔らかさを生かしたロングスローも得意で相手ゴール前のスローインの場面では、前線に張らず、自らロングスローでボールを放り投げることもあった。

所属クラブ

[編集]
ユース経歴
プロ経歴

個人成績

[編集]
国内大会個人成績
年度クラブ背番号リーグ リーグ戦 リーグ杯オープン杯 期間通算
出場得点 出場得点出場得点 出場得点
日本 リーグ戦 リーグ杯天皇杯 期間通算
1999 磐田 22 J1 0 0 0 0 0 0 0 0
2000 0 0 0 0 - 0 0
川崎 5 1 0 0 0 0 0 1 0
2001 J2 36 5 1 0 1 0 38 5
2002 40 4 - 0 0 40 4
2003 41 1 - 4 1 45 2
2004 36 1 - 2 0 38 1
2005 J1 30 2 6 0 3 0 39 2
2006 30 3 10 0 2 0 42 3
2007 30 1 5 0 4 0 39 1
2008 0 0 0 0 - 0 0
札幌 35 12 0 - 0 0 12 0
2009 5 J2 0 0 - 0 0 0 0
2010 0 0 - 0 0 0 0
通算 日本 J1 103 6 21 0 9 0 133 6
日本 J2 153 11 1 0 7 1 161 12
総通算 256 17 22 0 16 1 294 18
国際大会個人成績
年度 クラブ 背番号 出場 得点
AFCACL
2007 川崎 5 7 0
通算 AFC 7 0

代表歴

[編集]
  • ユニバーシアード代表

試合数

[編集]
  • 国際Aマッチ 1試合 0得点(2005)[1]


日本代表国際Aマッチ
出場得点
2005 1 0
通算 1 0

出場

[編集]
No. 開催日 開催都市 スタジアム 対戦相手 結果 監督 大会
1. 2005年10月12日 ウクライナの旗キエフ  ウクライナ ●0-1 ジーコ 国際親善試合

個人タイトル

[編集]

脚注

[編集]
  1. ^ a b “箕輪 義信”. サッカー日本代表データベース. http://www.jfootball-db.com/players_ma/yoshinobu_minowa.html 
  2. ^ 箕 輪 義 信 選手 川崎フロンターレへ移籍のお知らせ』(プレスリリース)ジュビロ磐田、2000年9月14日。オリジナルの2001年2月15日時点におけるアーカイブhttps://web.archive.org/web/20010215091031fw/http://www.jubilo-iwata.co.jp:80/Wn/wn0009/press/00091423.html2017年10月29日閲覧 
  3. ^ 箕輪義信選手現役引退のお知らせ コンサドーレ札幌公式サイト 2011年9月23日
  4. ^ 箕輪 義信さん”. タウンニュース社 (2012年5月25日). 2013年9月21日閲覧。

外部リンク

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