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2014年10月8日 (水) 16:52時点における版
本川橋 | |
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欄干 中島町より | |
基本情報 | |
国 | 日本 |
所在地 |
広島県広島市中区 左岸:中島町 - 右岸:中区堺町 |
交差物件 | 太田川水系旧太田川 |
座標 | 北緯34度23分37.4秒 東経132度27分02.2秒 / 北緯34.393722度 東経132.450611度 |
関連項目 | |
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本川橋(ほんかわばし)は、広島県広島市の旧太田川にかかる道路橋。上流側に人道橋(歩道橋)を併設している。
概要
本川とは、戦前まで太田川水系の本流だった旧太田川の通称である[1]。安土桃山時代あるいは江戸時代初期に木橋として築造されたものを、1897年に鋼トラス橋に永久橋化され、落橋に伴い現在の橋は1949年に再架橋されたもの。
当初は西国街道筋、近代は国道筋の、現在は市道の橋である。西方面から広島平和記念公園へと通ずる橋の1つ。上流に元安川の分流点と相生橋、下流に西平和大橋がある。東へ道沿いに進むと元安橋、西へ進むと広電土橋停留場があり更に進むと天満橋にたどり着く。
鋼製の桁は旧光海軍工廠の廃材を再利用している。橋脚は1897年に作られたものを補修しながら現在まで使っており、1945年原爆被災(爆心地より約410m)した被爆建造物でもある。
諸元
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橋全体 相生橋より
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橋全体 中島町より
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欄干 堺町より
歴史
近世
元々戦国時代この地の北側に「楠橋」という橋がありこの橋が本川橋の起源とするものもある[5]。
安土桃山時代に毛利輝元が広島城下を整備した際に、府中の松崎八幡宮の棚守を務めた加藤九郎右衛門兼鎮が当地に「猫屋」を開業した[3]。その時に猫屋が自費で木橋を建設したのがこの橋の始まりと伝えられている[3][6]。当時橋名は「猫屋橋」[3]であり、猫屋は豪商として当地で繁栄を極め、橋のみならず川や町にその名が付くことになった[7]。ちなみに現在において、松崎八幡宮は多家神社に合祀され跡地として残り[8]、猫屋の名は本川橋西詰北側に中区猫屋町として残っている。
広島市が公開する資料では天正年間(1573年から1592年)ごろ広島城を整備した際に架橋としている[3]。天正17年(1589年)3月輝元による現地調査、天正18年(1590年)末に広島城がほぼ竣工していることから[9]、架橋は1590年ごろと推定される。また江戸時代に書かれた毛利氏時代の町割絵図の『芸州広島御分国八州之時御城下屋敷割并神社仏閣割共図』には天正19年(1591年)架橋の猿猴橋と京橋は描かれているのにこの橋は描かれていない[10]ことから、少なくとも1591年より後に架橋と推定される。
毛利氏の後に入封した福島正則の藩政時代に、山陽道(西国街道)を城下に引き込みこの橋は西国街道筋の橋となった[11]。藩政時代において防犯上の理由により架橋制限されており[12]、この橋は本川に唯一架けられた西国街道筋の橋であった[6]。この地は当時は島だった江波の港から運ばれた積荷の中継地点として栄え[6]、現在も残る雁木から荷揚げされていた。
当時の猫屋橋の状況は絵地図として残っており、例えば広島城博物館が所蔵する『広島城下絵屏風』や『芸州広島図』で確認することができる[13]。また広島藩は太田川水系の治水に力を入れたが洪水は絶えず、寛政8年(1796年)城下で発生した大洪水では現在の中島町が浸水し猫屋橋も落橋している[14]。
近代以降
明治時代に入って國道四號筋の橋となる。当時の地図表記から、1877年(明治10年)から1894年(明治27年)の間に現在の"本川橋"に改名されたと考えられている[3][6]。
1897年(明治30年)トラス橋に架け替えられた[3][6]。当時の絵葉書から曲弦トラス(ボウストリングトラス)と呼ばれる3連のトラス橋であったとわかる。長さ40間(約72.7m)、幅4間(約7.27m)、工事費約4万3,570円[5]。広島初竣工の鋼橋であり、当時広島の繁華街だった中島町と問屋街・境町を結ぶ目抜き通りに架けられた橋であり、その珍しさから観光名所となった[3][6]。昭和期に売られていた広島銘菓"本川饅頭"は、この橋完成を記念して作られたものである[6]。橋の袂には1913年(大正2年)広島商業銀行の本店が新築移転している[6]。
大正時代までは国道であったが、昭和初期に相生通りを新しい国道として整備されることになった[15]。太平洋戦争に入ると1941年金属類回収令により市内の橋の鋼製欄干は次々と外されたが、この橋からは鋼部材が外されたかどうかは不明。
1945年(昭和20年)8月6日被爆。爆風により一部の桁が橋台から外れ片方だけがぎりぎり引っかかっていた状況であり、通行は不可能であった[3][16]。左岸側の中島町は壊滅、避難者は上流の相生橋や下流の新大橋(現在の西平和大橋)から西へ避難して行った。また、当時添架されていた水道管は切断され、給水不能となった[3][16]。直後、軍や救援隊によりここから元安橋までの国道筋の整理が行われ、本川橋も板を渡しただけの応急修理がなされていた[16][17]。
そこへ同年9月に上陸した枕崎台風により更に損傷し、同年10月阿久根台風による水害により完全に落橋した[3][16][18]。これら台風災害により、下流側の新大橋・住吉橋も落橋した[19]。
その後、また板を渡しただけの仮橋が架けられていた。戦後の物資不足が続いていたが、交通の要所であったため、真っ先に再建されることが決定、1949年(昭和24年)残った橋脚を利用して架け直された[3][4][6]。設計は当時広島県土木部職員の本多勇、その部材には空襲で壊滅状態となった旧光海軍工廠の廃材を使っている[3][4]。
その後、数度補修保全工事を行いつつ現在までその形をとどめている[6]。
周辺
橋脚は前述のとおり被爆建造物にあたり(市が公式に発表している被爆建物台帳・被爆橋梁台帳のどちらにも記載されていない)、下には毛利輝元の島普請による石組が残っている。
西詰南側には常夜灯が、周辺の護岸には雁木造りの揚場や舟繋の石柱や船舶の燥場が、遺構として残っている。西詰北側には、かつて「韓国人原爆犠牲者慰霊碑」があった。1945年李鍝が被爆により最期を遂げた場所でもある。さらに上流側に広島市立本川小学校がある。
東詰一帯は平和公園である。北側には東側河岸用と橋桁との繋ぎ目部分の路面用の石が残されている。これも被爆遺構であり、2003年の橋補修時に取り外され、この地にモニュメントとして置かれている。東詰周辺には平和公園内に昔存在した元柳町にゆかりのある柳の木が多く植えてある。
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橋脚(被爆建造物)
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被爆石材
脚注
- ^ “太田川と平和記念公園”. ひろしま文化大百科. 2014年2月28日閲覧。
- ^ a b ひろしま地図ナビ
- ^ a b c d e f g h i j k l m n “本川橋”. 広島平和記念資料館. 2014年2月28日閲覧。
- ^ a b c d “旧光海軍工廠廃材 本川橋も再建”. 中国新聞 (2006年2月12日). 2014年2月28日閲覧。
- ^ a b 『広島案内記』吉田直次郎、1913年 。2014年6月20日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j “広島の歴史的風景” (PDF). 広島県. 2014年2月28日閲覧。
- ^ 広島市 2005, p. 291.
- ^ “松崎八幡宮跡”. 府中町. 2014年2月28日閲覧。
- ^ 広島市 2005, p. 6.
- ^ “しろうや!広島城 第24号” (PDF). 広島城博物館. 2014年2月28日閲覧。
- ^ “商店街PR”. 広島商工会議所. 2014年2月28日閲覧。
- ^ “しろうや!広島城 第20号” (PDF). 広島城博物館. 2014年2月28日閲覧。
- ^ “しろうや!広島城 第27号” (PDF). 広島城博物館. 2014年2月28日閲覧。
- ^ “太田川水系の流域および河川の概要” (PDF). 国土交通省河川局. 2014年2月28日閲覧。
- ^ 「地方通信」(PDF)『道路の改良』第11巻第6号、土木学会、1931年5月、2014年2月28日閲覧。
- ^ a b c d 広島市 2005, p. 252.
- ^ 広島市 2005, p. 295.
- ^ 広島市 2005, p. 289.
- ^ 広島市 2005, p. 448.
- ^ 国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成
参考資料
- 四国五郎『広島百橋』春陽社出版、1975年。ASIN B000J9FFA2。
- 広島市『広島原爆戦災誌』(PDF)(改良版)、2005年(原著1971年) 。2014年2月28日閲覧。
- 松尾雅嗣、谷整二「広島原爆投下時の一時避難場所としての川と橋」(PDF)『広島平和科学』第29巻、広島大学、2007年、1頁-25、2014年2月28日閲覧。
- 本川橋
- 戦前の絵葉書アーカイブ - 東北芸術工科大学。