ウクライナ 最後のチャンスにかけた外国人義勇兵たち

ゼレンスキー大統領の呼びかけを受け、ウクライナには外国人義勇兵が押し寄せた。彼らは、道徳的な怒りや冒険への渇望、贖罪の心など、さまざまな動機に突き動かされていた。
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キーウの基地にて、 ジョージア軍団のメンバーたち。

キーウにある独立広場近くの薄暗いバーのブースで、ハイネケンを飲んでいたのは、頭を丸刈りにした痩せたアメリカ人、マイケル・ヤング(36)だった。外の通りは4月の霧雨でぬかるみ、寒々しい。ヤングは数週間前に米オレゴン州ポートランドからウクライナにやって来た。ウラジーミル・プーチン大統領率いるロシア軍を撃退しようと、戦地に殺到する何千人もの義勇兵に加わるためだ。戦争が始まって2カ月足らずだったが、ウクライナ領土防衛部隊外国人軍団(以後、外国人軍団)の隊列は急速に兵士の数を増やしていた。最近攻撃に遭い、殺されたと言われている部隊が、じつは自分の部隊と合流する予定だったと知ったヤングは、危険が徐々に近づいてくるのを実感していた。

「現実味を帯びてきましたね」。15年前に、イラクやアフガニスタンで戦わないまま米海兵隊を除隊後ずっと、戦闘任務に就くことを願っていた彼は言った。2月にウクライナが侵攻された直後、ウォロディミル・ゼレンスキー大統領は、外国人義勇兵たちに戦闘への参加を呼びかけた。「これはヨーロッパに対する戦争の始まりであり、民主主義と平和的共存に対する戦いです」。そして、義勇兵を訓練し、派遣する外国人軍団の編成を発表した。ヤングはそれに応えたわけだが、戦いに参加する道のりは容易ではなかった。最初は外国人軍団への入隊を検討していたが、結局3月にジョージア軍団に入隊した。ドンバスでロシア軍との戦闘が始まった2014年に、ジョージア人のマムカ・マムラシビリ司令官(44)が創設した1100人以上の男女からなる大隊だ。アメリカ人やイギリス人の外国人義勇兵が少数いるが、大半は2008年に同じくロシアに侵攻されたジョージアからの義勇兵だ。しかし、ヤングはすぐにジョージア軍団を離れ、2人のアメリカ人とともに、より迅速な展開が期待できる部隊に入隊した。求めていた戦闘はまだ目にしていなかったが、与えられた任務をこなせば、少しずつ近づけるように思えたのだ。

左から、 キーウの独立広場近く のパブの前に立つ、 マイケル・ヤング、 ダラス・ケーシー、 マーク・ワトソン。

TIMOTHY FADEK

その日の朝は、南東560kmほど先のバフムートにいる部隊に、防弾チョッキやヘルメット、タバコなどを届ける任務から戻ったばかりだった。次に自分がどこへ行くのかは漠然としかわからなかったが、指揮官からは「戦闘準備はできている」とみなされているので、近いうちに東へ長期間送られるだろうと期待していた。ヤングと一緒にブースに座っていたのは、ジョージア軍団を同時に辞めた2人のアメリカ人だった。3人は、近くのホテルに泊まっていた。元アメリカ海兵隊員のマーク・ワトソン(27)は、カリフォルニア州出身のソフトウェア開発者で、眠そうな目をした細身で寡黙な男だ。ウクライナで生まれ、6歳の時に両親とアメリカに移住した。軍隊では歩兵部隊としてフィリピンに、海兵隊の対テロ部隊(FAST)としてイスラエルに派遣されたことがある。ウクライナ語を少し話し、キーウ近郊にはまだ家族が住んでいて、戦争で戦っている親戚もいる。もう1人はあごひげを生やしたダラス・ケーシー(28)で、ハスキーな声でよく話す温厚な男だ。アメリカ陸軍の衛生兵として従軍した後、イスラエルではトリプル・キャノピーという警備グループに所属して政府高官の警護に当たった。現在はソルトレイクシティのIT企業に勤めており、医学部への進学を考えていたが、ロシアが侵攻するや否や、いてもたってもいられずウクライナ行きを決意した。

バーにいたのはこの3人組だけではなかった──ここは、さまざまな民兵部隊に所属する外国人戦闘員のたまり場なのだ。ワトソンは、ビールを飲んでいるほかの男たちに目をやった。「入隊できる軍団には、右派セクターのような、よくわからないものもあるんですよ」。2013年の終わり、当時大統領だったビクトル・ヤヌコビッチへの抗議デモの最中に生まれた、準軍事組織の傘下にある超国家主義団体のことで、機動隊と戦い、ヤヌコビッチを権力者の座から引きずり下ろすのに一役買った。3人が所属する部隊には、危険好きな者、右翼の国家主義者、日和見主義者、〝良い戦争〟を望む善良な者など、さまざまな動機と個性をもつ人間がいた。なかにはヤングのように、道徳的な怒り、冒険への渇望、贖罪の心など、簡単には理解できないような動機に突き動かされた者も。彼らは、故郷から遠く離れた土地で繰り広げられる悲惨な戦闘が、目前に迫るところまで着実に進んできた。そして、さらに深く入り込んでいくことになる。

52カ国から2万人の義勇兵

イラク戦争に従軍した経験を持つイギリス人、マシュー・ ロビンソン。ジョージア軍団の外国人義勇兵たちの司令官を務めている。

TIMOTHY FADEK

ロシア軍の侵攻から3日後、ゼレンスキー大統領は世界に支援を訴えた。ウクライナ軍の現役兵士は19万6000人と相当の数がいるが、ロシアの90万人には遠く及ばない。敵を食い止めるにはより兵力が必要だということだろう。「防衛に参加したい人は誰でも、ウクライナに来て、ともにロシアの戦犯者たちと戦いましょう」という呼びかけは、1936年にスペイン内戦が勃発した際、共和党軍が、65カ国から集まった約3万5000人の義勇兵の助けを借りてフランシスコ・フランコ将軍が企てたクーデターを撃退したのを思い起こさせる。

実際にウクライナに何人やってきて、そのうち何人がすぐ帰国したのかは定かではないが、外国人軍団編成の発表から1週間後、ウクライナ政府は52カ国から2万人が志願したと公表した。にもかかわらず、国際社会はゼレンスキー大統領の訴えに対して、一貫した反応を示さなかった。ラトビアやリトアニアなど旧ソ連の弱小国を含む数カ国の政府が、義勇兵を正式に認めたいっぽうで、オーストラリアでは、当時の首相スコット・モリソンが、国民にウクライナへの渡航を控えるよう促し、紛争で戦うことは、場合によっては違法にあたると警告した。イギリスのリズ・トラス外相は、ウクライナで義勇兵となったイギリス人を、「確実に」支持すると述べていたが、翌日、すぐボリス・ジョンソン首相に否定された。翌週、同首相は、ウクライナに行ったイギリス人兵士は軍法会議にかけられるだろうと述べ、イギリス政府は、帰国後、民間人が訴追される可能性があると警告した。アメリカ国務省は米国民に対し、ウクライナへは渡航しないよう警告しているが、義勇兵になることの合法性については確固たる声明を出していない。

戦場で外国人兵士が捕虜になる危険性もある。ロシア国防省の広報担当者は、外国人兵士は戦闘員ではなく傭兵であるため、捕虜の拷問や処刑を禁じるジュネーブ条約では保護されないと明言し「犯罪者として訴追される可能性がある」と述べた。ほかにも、義勇兵の逆風となるような動きがあった。外国人軍団が発表された翌日、ウクライナ大使館の複数のウェブサイトがサイバー攻撃を受けた。ノルウェー警察はオスロの大使館をハッキングしたのはロシア人だったと断言した。しかし、こうした圧力も、義勇兵たちの闘志は止められなかったようだ。

彼らは暗号化メッセージアプリのSignalやTelegram、WhatsAppを使って、ウクライナや隣国ポーランドにいる仲介者に直接連絡している─軍事品のロジスティクスなど、役立つ情報を共有する非公式ネットワークができているのだ。待ち合わせ場所、補給物資のリスト、紛争地域の現状───世界の裏側で行われている戦争に参戦するのに必要な情報は全部、簡単に志願者たちの手に渡った。

また3月、アメリカの反政府過激派グループ「ブーガルー・ボーイズ」のメンバーだったとされるヘンリー・ヘフト(28)は、ウクライナに渡り、ジョージア軍団に志願した。しかし数日後「武器も装備も装甲板もない状態で」外国人たちがキーウに送られ、拒否すると司令官が「背中を撃つぞ」と脅してきたと自ら訴える動画をネット上に投稿した。ジョージア軍団の義勇兵は、これを「まったくの虚偽」とし、ヘフトは軍団の審査に合格できなかったことに反応していると主張する動画をジャーナリストに提供した。

軍団創設者のマムラシビリ(総合格闘家で、アブハジア紛争と第1次チェチェン紛争を経験した退役軍人)は、彼が除籍されたのは、面接の際に過激派運動との関係が疑われたからだと反論した。しかしヘフトの動画が多くの志願者を不安にさせたのは間違いなかった。さらに、3月にロシアの巡航ミサイルがヤヴォリウの国際平和維持・安全保障センター(約1000人の軍人が訓練を受けていた)を攻撃すると、ロシア国防省はこの攻撃で最大180人の「外国人傭兵」が死亡したと主張したが、ウクライナ側は、死亡者数は35人で、外国人は1人もいなかったと断言した。

入隊に「審査なんてない」

ジョージア軍団の基地でのマシュー・ロビンソン。

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義勇兵の間ではすぐに、ネットでの投稿がロシア軍の攻撃に一役買ったのではないかとの憶測が広がった。名字を伏せたうえで話を聞かせてくれたスコッティ(37)は、スコットランドのグラスゴー出身で、侵攻前はイギリスの空港警備会社で即席爆発装置(IED)の専門家として働いていた。外国人軍団に加わり、キーウの新しい拠点に派遣されたが、その場所もTikTokなどに不用意に居場所を明かした新兵のせいで、危険が及んだと言う。「突然警報が鳴って、逃げる準備をしていたら、迫撃砲が降ってきました。医療機器や防弾チョッキなどの装備は置いていくしかなかった。中に戻るのは危険すぎました」。この攻撃で負傷者は出なかったが、もう少しで大惨事となるところだった。

その後、スコッティは外国人軍団を辞め、ジョージア軍団の一員となった。警備を強化している彼らは、新兵から携帯電話を3日間取り上げ、訓練期間中は位置情報サービスをオフにするのを義務付け、違反した者は誰でも除籍させられるそうだ。SNSやメッセージツールは、戦闘地域においては貴重なリソースにもなっている。私はSignalのなかでも、イギリス人の戦闘経験者が始めた大きなグループに招待された。戦闘に参加する外国人にとって、入門書のように利用されているこのグループのチャットでは、様々な国から来た義勇兵が情報交換をしていた。〝ポーランドの良きサマリア人〟というIDの人物は、ワルシャワとリヴィウ間の運び屋になると申し出ており、最新のバスと列車の時刻表や道路状況などを教えていた。給料の話も出た──あるアメリカ人は、どこかの外国人部隊での給料が月3500ドルだと聞いて喜んでいたが、1カ月後、ウクライナの通貨・フリヴニャでもらった給料は118ドルほどにしかならなかったという。

このグループは、ウクライナで外国人戦闘員を受け入れている集団の道しるべとなっていた。そのなかには、以前はアメリカ特殊作戦軍の司令官だったアンディ・ミルバーンが、狂信的な親プーチン派の傭兵組織「ワグナー・グループ」と対抗するかのように設立した「モーツァルト・グループ」などがある。また、極右の派閥もあり、もっとも名高い「アゾフ連隊」は、2014年のドンバス戦争の間に準軍事部隊として発足し、ネオナチ思想との関連があるにもかかわらず、ウクライナ軍に編入された。こうした過去の影がまだ残ってはいるが、アゾフ連隊はここ数カ月でそのイメージを一掃しており、今年の春には、マリウポリにある廃墟のアゾフスタリ製鉄所のなかからロシア軍を数週間食い止めたことで、世界的な注目を集めた。

もし、当初の2万人近い志願者が外国人軍団に入ったとすると、ウクライナの外国人軍団としては最大規模になる。しかし少なくとも当初は、兵士の質にムラがあると言われていたと、イギリス人のマシュー・ロビンソン(40)は言う。イラク戦争でケロッグ・ブラウン・アンド・ルートの請負業者として働いていた彼は、参戦するために3月に早期退職した。「不当なイラク戦争に参加してしまった償いを、ずっとしたいと思っていました」。その後、ポーランドに飛び、空港の新兵募集ブースで外国人軍団に登録した。しかしウクライナ入りする前からすでに、軍団の義勇兵たちの資質に疑問を感じていた。ウクライナに向かうバスのなかで、酔った義勇兵がリュックからナイフを取り出して運転手を襲い、車両を乗っ取ろうとしたのだ。そこで彼は、外国人軍団を辞めてジョージア軍団に入り、司令官に昇進した。

ほかにも、「外国人軍団は『不安定』な人間ばかりで、『アンフェタミンやテストステロンやステロイド、隠れて戦場に持ち込んだドラッグでハイになっていた』」とFacebookに投稿した義勇兵もいた。ロビンソンは、自分が志願した当時の外国人軍団について、「審査なんてないですよ」と教えてくれた。「『戦いたい』と言えば、経験もない人たちをすぐに戦場に送り出すのですから」

それとは違う不満を口にする義勇兵もいた。ロシア軍の戦車と戦うためにすぐに派遣されると思ってウクライナに来たのに、弾薬不足を理由に、前線行きを延々と待たされているというのだ。外国人軍団の広報担当者で、ノルウェー出身の弁護士でもあるダミアン・マグルー伍長は、これまで軍団に問題があったことを公に認めている。

そして4月にはワシントン・ポスト紙に「スタートアップのようなものですよ。やりながら学んでいきます」と答えている。ジョージア軍団のマムラシビリに尋ねると、義勇兵の戦闘準備ができているかどうかを確認するのに、新入隊員には3週間の待機期間を課しているという答えが返ってきた。「彼らは経験がなくても、到着して2日後には武器を持って前線に出ていきたいと思っています。でも私は『これは戦争だ。大勢の人が死んでいるんだぞ。準備は万全にしておいたほうが身のためだ』と言っています」

前述したマイケル・ヤングは、ある意味で誰よりも長い間、前線で戦う日が来るのを待っていた。2004年、高校2年生の時に起きたアメリカ同時多発テロ(9.11)事件をきっかけに米軍に入隊した彼は、ライフル射撃を覚え、FASTに所属し、3カ月間グアンタナモ基地の周辺警備にあたるなど、海兵隊員としての経験を積んだ。しかし2006年、「精神的な問題」に苦しむようになり、翌年に名誉除隊となった。このせいで復員軍人援護法による学費援助は受けられず、働きながらワシントン州立大学を卒業し、心理学の学位を取得すると、その後は仕事を転々とした。ウクライナ侵攻のニュースを聞いた時には、アイダホ・パンハンドル国有林で樹木管理の仕事をしていた。ロシア軍の侵攻がヤングに大きな影響を与えたのは、12歳の時、海軍を退役後にペンテコステ派の宣教師となった父親に連れられて、一家でワシントンからラトビアに移住したことにも起因する。旧ソ連邦の国々に長年ある、ロシアの権威主義への恐怖を理解した彼はこう誓ったのだ。「もし東欧で何か起きたら、助けにいく」と。

ジョージア軍団に入った後、ヤングは自分の動機と限界について思いを巡らせた。「危険や冒険に惹かれる自分がいます。それに、軍隊での経歴をあんな形で終わらせたのを償いたいと思う自分も」。また彼は、他の退役軍人から「米軍ではできなかった経験を積むためにウクライナに行く」ような戦士気取りのひとりだと揶揄されるのを恐れていた。でもいちばん気にしていたのは、指揮官たちに戦闘資格がないと言われることだった。「どこに行っても、『出ていけ、お前は気に食わない、お前なんていらない』と言われそうで不安なんです」

空襲警報が鳴り響くリヴィウ

ジョージア軍団のメンバーである、ジョージア出身の俳優ギオルギ・クラシビリ。

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オーストラリア出身の造園家マット・ロー。

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アメリカのメイン州出身の漁師マイケル・ケリー。

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3月に私がヤングと会ったのは、ポーランドのクラクフ中心部にあるホテルのロビーだった。ウクライナ行きのバスに彼が乗り込む数時間前のことだ。マーク・ワトソンが一緒だった。Signalを通じて知り合った2人は、一緒に戦地に向かうことにしたのだ。午前2時、底冷えのする車両に乗り込むと、バスはガタガタと音を立てながら、暗闇の中を東に向かっていった。乗車していた約20人はほとんど居眠りをはじめたが、ヤングとワトソンはたわいもない会話をしていた。冗談を言いながらもワトソンは、今後を想像して暗い気持ちになっているようだった。「戦場に着いて5分後には殺されているかもしれないし、何カ月いても何も起こらないかもしれない」

午前6時、太陽が地平線上に顔を出すと、空はオレンジ色と深紅色に染まった。夜明けの薄明かりのなか、霞がかかっている。国境検問所でポーランド人の入国審査官が乗り込んできてパスポートの手続きをすると、バスはリヴィウへと進んでいった。高速道路からは、セメントブロックでできた家々の上に、金色のドームが施された教会がそびえ立つのが見えた。砂袋を積み上げて作った検問所を通り過ぎると、ボロボロのウクライナの旗や、火炎瓶の入った木箱、「ロシア軍艦よ、くたばれ」と書かれた横断幕が見えた。リヴィウ中心部にくると、ヤングはジョージア軍団の担当者とWhatsAppでメッセージを交換しはじめ、大きな駅の前で2人はバスを降り、Googleマップを見ながら合流地点に向かった。数分後、彼らの仲介者ボーダン・ソロンコがジーンズ姿で現れた。

連日、空襲警報が鳴り響くリヴィウでは、住人はみな避難し、警報が解除されるまで何時間も待たされていた。「訓練所が攻撃された日は、夜中の2時から朝の7時まで警報が鳴り響いていましたよ」と言うと、彼は新入隊員の2人に、忍耐の大切さを説いた。防空壕に避難していた人々の多くが、しびれを切らして外に出てしまったが、そのほとんどが殺されたそうだ。その数時間後、また空襲警報が発令された。私が滞在していたホテルの3階の部屋からも、爆発音が2回聞こえ、約5キロ離れた燃料貯蔵庫から黒い煙がリヴィウ中心部に向かって流れてくるのが見えた。リヴィウ郊外の軍事基地で、ウクライナ軍の予備軍であるウクライナ領土防衛隊の隊員たちと、イギリス人やアメリカ人、数名のポーランド人やルーマニア人、フランス人、ノルウェー人など約20人の外国人の見習い戦闘員と一緒に、武器を持たないまま訓練をしていたヤングとワトソンは、警報を聞いて地下室に避難した。ヤングは、「1日に4回も空襲がある」と友人や家族にメールで伝えた。「最初は午前3時。気管支炎の男性を病院に連れて行こうとしていたんだけど、彼は今も俺らと一緒にシェルターにいる。プーチンはクソ野郎だ。はらわたが煮えくり返るね」

その後の彼は、さらに不満をつのらせていく。最初はジョージア軍団の慎重さに感心していたが、今ではいつになっても戦場に近づけないのではないかと不安を感じ始めたのだ。4月中旬には、私に「正直に言って、なんで俺たちに来てくれって言ったのかわからないですよ」というメッセージを送ってきた。その1週間後、マムラシビリとジョージア軍団の最高司令官は、新兵募集を中止し、まともな戦闘経験のない外国人志願者は前線での戦闘に加わらないように勧告した。武器不足もあり、外国人戦闘員を雇うのは、基本的な軍事技術をウクライナ領土防衛隊員たちに教えるためとするのが最善だと考えている、という説明にヤングたちは、そんなことのために入隊したのではない、という思いでいっぱいだった。数日後、ヤングは私に、3人で軍団を離れて、外国人義勇兵から成る前線への物資輸送や負傷者の救助に従事する小さな無所属の集団と合流することになったと教えてくれた。戦場の片隅で雑用に追われるようなものだったが、それでも彼らにとっては前進だった。しかしそこから彼らの日常に、新たな危険がはびこるようになる。キーウで3人に会った時、ケーシーはこう言っていた。「負傷した兵士の救出がかなり多いですね。でも、難しいです。いまだに武器を持たされていないのに、命がけの任務になるかもしれないですから。車両に乗った数人の兵士が、前線に向かう途中で殺されたこともありました」

危険はさらに差し迫っているようだった。それから数日後、イギリス人のエイデン・アスリンとショーン・ピナー、モロッコ人のブラヒム・サードゥンが、ウクライナ軍とともに戦っている間に捕らえられたのだ。ドネツク人民共和国当局を自称する人物たちが、3人を傭兵として起訴すると声明を出したため、ジュネーブ条約が戦争捕虜に約束する保護を与えなかった。数週間後、捕虜たちは見世物裁判にかけられ、死刑を宣告された(イギリス政府はこの判決を食い止めようとしている)。そして4月28日、3月にウクライナ軍とともに戦ったテネシー州出身の刑務官ウィリー・ジョセフ・キャンセル(22)の死亡が報告された。ウクライナの戦闘で死亡が確認された最初のアメリカ人だった。ヤングは友人や家族には勇ましい態度で話していたが、不安を抱いているのは明らかだった。「ここで音信不通になるかもしれない──2週間か、それ以上。連絡がなくても慌てないでくれ」

信じるべき大義

キーウの基地に掲げられたジョージア軍団の旗。

TIMOTHY FADEK

ヤング、ワトソン、ケーシーは、軍需物資の運搬や負傷者の救出など、前線との行き来に何週間も費やしたあと、新たな任務についた。援助団体のロード・トゥ・リリーフと連携して、ポーランド製の救急車やバンを手に入れ、5月末にはほぼ毎日、プリヴィリアやセヴェロドネツクなどのルハンスク州の町(当時ウクライナ軍が支配していたが、ロシア軍の機動部隊に潜入されていた)へ車を走らせた。彼らが活動する地域には、ほとんど人がいなかった。砲撃で負傷し、自力で移動できないほど弱りきった親ウクライナの市民と、外国から来た慈善家ぶった人間を敵対視する親ロシアの分離主義者が散在していた。しばしば罵声を浴びせられ、「失せろ」と言われたこともあったそうだ。「『俺たちはロシア軍が解放してくれるのを待っているんだ。おまえらは信用ならない。ロシア軍が来れば、もっといい暮らしができる』と言われました」とヤングは言った。

間近で見た戦争は、まさに予想を裏切るものだった。ある日曜の朝、ヤングは救急車のハンドルを握ってセベロドネツクに向かった。橋を渡って街に入ると、不気味なほど人の気配がなく、通りにはクレーターの跡や切れた電線があり、道路にはロシア軍の不発弾が埋まっていた。数百メートル先で発射されたミサイルの振動が伝わってきたという。彼は、地下シェルターに案内された。階段を下りて暗いトンネルに入り、金属製のドアを開けると、汗や腐食の悪臭がした。空気の通らない2つの部屋では、弱いランプの光に照らされながら、数十人がマットレスや段ボールに横たわっていた。特に子どもたちの咳や、ゼーゼーという音が充満している。シェルターの責任者は、マットレスの上でほとんど意識のないまま、浅い呼吸をしている老女を指さし、今すぐ助け出さなければ、一晩もたないと言った。ヤングは、女性を連れてクラマトルスクの病院に行った。数日後に主治医から、彼女が一命を取り留めたと知らされて胸を撫で下ろした。比較的単純な任務だったが、疑心暗鬼に陥っていた時期だったこともあり、たしかな達成感があった。

ウクライナに滞在して3カ月が経とうとしているが、彼はいまだに自信のなさに時折悩まされるという。しかし今回の戦争では、少人数の義勇兵グループのリーダーとして頭角を現すことができた。「僕は父親のような存在ですかね。みんなを正気に保って、集中させる。それがここでの僕の役割です」この話を聞いた翌日、ロシア軍の侵攻によって、避難活動の際にヤングが渡ったセベロドネツクの橋が爆破された。約56キロ先の検問所からでも、街の上にあがった煙の輪が見えるほどで、ウクライナ軍は余儀なく撤退した。ヤングからのメッセージには「いったん身を引くことにした」と書かれていた。ドンバスの戦いが激化するにつれ、ほかの外国人志願兵たちにも危険は迫りつつあった。

6月初旬、アメリカ出身の退役軍人2人が、ハルキウ郊外での小戦で、ロシア軍に支援されている分離主義者たちに捕まり、拘束されたと報じられた。また同じ週に米国務省は、4月から行方不明になっていると見られるアメリカ人義勇兵の名前を公表した。今のところ、ヤングたちの活動は人道支援に限られているが、騒然とした紛争地域の至るところに危険が潜んでいるのを痛感しているという。

たとえば、ケーシーとワトソンは、6月にクラマトルスク市内を走行中、榴弾砲を牽引している軍用トラックを避けようとハンドルを切り、車を電柱に激突させた。2人とも負傷し、ドニプロで治療を受けた。皮肉にも戦闘とは関係ない負傷だったが、彼らはこんな経験を戦地でするとは思ってもいなかった。しかしよく考えてみれば、起こるかもしれないと想像していたことは、実際にはほとんど起きていなかった。それでも、ヤングは長期滞在を希望していて、3年間ウクライナ軍に入隊できないか司令官に打診したという。戦争で戦いたかっただけの以前とは違い、今では信じるべき大義のようなものを見出していた。彼のFacebookの投稿にはこう書かれている。「まさに今、やりたいことをやれている」

この記事は、US版『GQ』の「Ukraine’s Last-Chance Brigade」の翻訳・短縮版で、日本版『GQ』2022年10月号誌面にも掲載されたものです。

WORDS BY JOSHUA HAMMER 
PHOTOGRAPHS BY TIMOTHY FADEK 
TRANSLATION BY MIWAKO OZAWA