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利用者:Poo tee weet?/goes

座標: 北緯40度46分35秒 西経73度58分34秒 / 北緯40.776436度 西経73.976006度 / 40.776436; -73.976006

Poo tee weet?/goes
事件現場の ダコタ・アパート
場所 ニューヨーク市マンハッタン
日付 1980年12月8日10:50 pm (1980-12-08T10:50 pm) (推定時刻)
標的 ジョン・レノン
武器 チャーターアームズ .38 スペシャル リボルバー[1]
死亡者 1
犯人 マーク・デイヴィッド・チャップマン
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ジョン・レノンはイギリス人のミュージシャンであり、ビートルズ創設メンバーの1人として世界的な名声を得た。解散後もソロで活動を続け、その政治的な行動主義や平和主義でも知られるようになった。そしてレノンは住んでいたマンションの入り口でマーク・デイヴィッド・チャップマンに射殺された。そこはニューヨーク市のダコタ・アパートで日付は1980年12月8日、その日は月曜だった。妻であるオノ・ヨーコとともにレコード・プラント・スタジオから帰ってきたばかりのことである。

セント・ルークス・ルーズベルトホスピタルセンターについたときには到着時死(DOA)だった。そこで、このような傷を負っては数分以上と持たないということが告げられている。ほどなくして地方のニュース番組でレノンの死が報じられ、ルーズベルトホスピタルとダコタ・アパートの前には人だかりができた。火葬は1980年12月10日にハーツデールにあるファーンクリフ墓地で行われたが、遺骨を受けとったオノ・ヨーコは葬儀を行わないことを決めた。全国区の番組で初めてレノンの死を報じたのは、ABCのハワード・コセルだった。番組名は「マンデー・ナイト・フットボール」である。

死の前日まで

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1980年12月8日

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1980年12月8日の午後2時に、フォトグラファーのアニー・リーボビッツがオノ・ヨーコとレノンのアパートメントを訪ね、「ローリング・ストーン」用の写真を撮った[2]。リーボビッツはこのオノ・ヨーコと一緒の写真を雑誌の表紙にするとレノンに約束したが、これははじめはレノン1人だけを撮ろうとしていたからだ[3]。「〔オノ・ヨーコを〕表紙でみたい人なんていないでしょ」とリーボビッツは回想している[4]。しかしレノンが表紙を2人の写真にすることにこだわったので、その通りに撮ると、3時30分に部屋を出ている。その後にレノンは最後のインタビューを受けた。聞き手はサン・フランシスコのDJで、RKOラジオネットワークの音楽番組のための取材だった。午後5時、レノンはオノ・ヨーコとアパートを出て、「Walking on Thin Ice」のミキシングをするためにレコード・プラント・スタジオに向かっている[5]

マーク・デイヴィッド・チャップマン

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2人がリムジンまで歩いて行くと、サインをねだりに何人かが近づいてきた。ファンにとってはレノンに会ってサインを貰うためにダコタの玄関で待つのはふつうのことだった[6]。そしてファンの中にはチャップマンもまじっていた[7]。ホノルル出身の警備員だったチャップマンがレノンを殺すために初めてニューヨークに来たのは10月のことだった(まだ「Double Fantasy」は発売されていなかった)。当時は思い直してそのまま家に帰っているが[8]、この時のチャップマンは「Double Fantasy」のディスクを静かに差し出した。レノンは快く応じて[7]アルバムにサインをした後でこう聞いている。「これでいいかな(Is this all you want?)」。チャップマンは微笑んで、そうだという風に頷いた。写真家で、レノンのファンでもあったポール・ゴレッシュがこの出会いの場面をカメラにおさめている[9]。チャップマンは午前中からアパートの外でレノンを待っていた。午後にその幼い息子ショーン・レノンとシッターのヘレン・シーマンがダコタへ帰ってきたときにもそばへ近づいているようで、チャップマン自身がいうには、自分がレノンを待っているファンだと自己紹介をしながら軽く少年の手に触れたのだという。

レノンがレコード・プラント・スタジオで数時間過ごしてからダコタ・アパートに帰ったのは10時50分ごろだった[10] 。食事は外でとることにしていたレノンは、5歳のショーンが寝るころにちょうど家に戻ることができたので、息子におやすみをしてからオノ・ヨーコとレストランの「ステージ・デリ」に出かけた[10] 。サインや写真のために何時間も自分を待っていたファンにはいつも気軽に応じていたレノンは、1980年12月5日にBBCのラジオ番組「Andy Peebles」[11] のインタビューでこんな発言をしたこともある。「サインを欲しがっている人が来て、「Hi」とは言うかもしれないけど、それにうんざりするってことはないよね」[2]。リムジンに乗ったレノンたちは警備のしっかりしたダコタ・アパートの中庭ではなく72番通りを抜けた[12]。 チャップマンの動機と精神状態とは複雑である。何年もこころに問題を抱えていたチャップマンは、レノンの曲がもつ政治的メッセージにとりつかれていた。「bigger than Jesus」という言葉にも、不敬だといって激高したことがある。後にチャップマンは「God」と「Imagin」にも腹が立ったと語っている。その怒りは「想像してごらん 何も所有しないって(imagine no possessions)」という歌詞とレノンの個人資産の金額が矛盾していることにも向けられた[13]。だからチャップマンはこんな替え歌を歌った。「想像してごらん ジョン・レノンが死ぬところを(Imagine John Lennon dead)」[14]

殺人

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アパートメントのドアマン、ジョゼ・ペルドモとそばにいたタクシードライバーはアーチでできた影のなかにたつチャップマンを目撃している[15]。オノ・ヨーコがレノンのほうに足をむけ、受付に歩いて行った。道の途中でレノンはチャップマンに短く目をやり、そのまま歩きつづけた。数秒と間を空けずチャップマンはレノンの背中をまっすぐに狙って、チャーターアームズ社の拳銃(.38 スペシャル)で続けざまに5発のホローポイント弾を撃ち込んだ[1]。当時ニューヨーク市警察のジェームズ・サリヴァンが膨大な数のラジオ、テレビ、新聞の報道に語った証言によれば、チャップマンは発砲する前に「ミスター・レノン」と呼びかけてからコンバットスタンスにはいった[16][17][18]。しかし現場の目撃者と法廷で傍聴した人間からは、「ミスター・レノン」や「コンバットスタンス」という表現は出てこないし、チャップマンも撃つ前にレノンの名前を呼んだ記憶はないといっている[19][20][21]

最初の弾丸は当たりそこねてレノンの頭をかすめ、ダコタ・アパートの窓に当たった。しかし2発目が背中の左側に命中し、さらに2発が左肩を貫通した。4発中3発が完全に身体を貫いて胸に抜けたため銃創は7箇所にできた。4発全てが重傷につながりそのうち2箇所が致命傷になった。左半身の肺と大動脈が走っているすぐそばの鎖骨下動脈に傷を負ったのである。傷口と口から血を吐きながら、よろめいて5歩のところにある受付にいきこう言った「撃たれた、撃たれた」[22]。そして床にくずれ落ち、腕いっぱいに抱えていたカセットをぶちまけた。管理人のジェイ・ヘイスティングスははじめレノンの服を破いて止血しようとしたが、血だらけになったシャツをみて、あちこちにひどい怪我をしていることに気づいた。胸を彼の上着でおおい、血まみれの眼鏡をはずすと、警察を呼びにいった[10]。 外ではドアマンがチャップマンの手から銃を振り落とし、道のわきへ蹴り飛ばすところだった[15]。チャップマンは警察が来るためコートと帽子をとってほかに武器を隠していないことがわかるようしてから道脇に腰をおろした。ドアマンはチャップマンに叫んでいる。「何をしたかわかってるのか?」。返事は静かな口調だった。「ああ、ジョン・レノンを撃ったばかりだ」。最初に現場に到着した警官は72番通りとブロードウェイからダコタで発砲があったと報告をうけてやってきた2人組だった。刑事たちは2分ほどして、道ばたに「とても落ち着いて」座っているチャップマンを発見した。警官たちの報告書によれば、彼は地面に落とした銃のほかに、サリンジャーの「ライ麦畑でつかまえて」を持っていた[23]。中表紙にはチャップマンの走り書きがあった。「ホールデン・コールフィールドへ。ホールデン・コールフィールドより。This is my statement」。主人公ホールデンの人生は自分とそっくりだった、とチャップマンは後に語っている。

ロビーで倒れる前にレノンが昇ろうとしたエントランスの段差

数分後さらに別の2人組が到着し、レノンをすぐにパトカーにのせるとセント・ルークス・ルーズベルトホスピタルセンターへと向かった。刑事の1人によれば、レノンは後部座席に乗せられた[24]。そしてこう訪ねる。「自分がだれかわかるか?」。次に起こった出来事は証言が食い違う。ある人によれば、レノンはかすかに頷き、何か話そうとしたが、ゴボゴボという音を立てただけでその後すぐに意識を失った[25]。 医師のスティーヴン・リンが救命室で待っていたが、着いたときのレノンには脈も呼吸もなかった。リンも含めて3人の医師が20分近くかかりにきりになって回復につとめた。胸元を開いて手で心臓マッサージをしたが、心臓周りの血管がうけた傷はあまりに重かった[26]。医師のリンがジョン・レノンにDOAを宣告したのは11時15分のことである[27]。もう少し早い11時7分という数字もある[28]。死因はおよそ80%の血液を失っての出血多量によるショック死と報告されている。ホローポイント弾4発は当たった箇所で変形して細胞を食い破るため通常より重い傷を負わせており、その威力によってレノンの器官は事実上弾が当たった瞬間に破壊されたのだ。「もし[彼が]救命室の中央で撃たれて、外科チームがすぐ治療しても、この怪我では生き残れなかっただろう」とリンは語った[29]。医者から夫の死を聞かされたとたんオノ・ヨーコはむせいで泣きだした。「いや、いや、いや、いや…嘘だといってよ(Oh no, no, no, no... tell me it's not true)」。そして放心状態のままゲフィン・レコードの社長であるデヴィッド・ゲフィンに抱えられて病院へと向かっている[30]

マンデー・ナイト・フットボール

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オノ・ヨーコは自分から息子に告げるまでレノンの死は伏せておいてほしいと頼み込んでいる。子供にはテレビで父の死を知ってほしくなかった、と後に語っている[30]

病院関係者は射殺はおろかレノンの状態についても口をつぐんでいたが、WABC-TVのレポーター、アラン・ウェイスによってABCニュースに情報が伝えられた。彼はバイク事故で怪我をして午後はやくに入院していたのである。レノンが救急室に駆け込んできたとき、ウェイスもそこにいあわせた。そしてテレビ局に電話をつなぎ、このニュースのことを話した。受話器をとったニール・ゴールドスタインはそれをニュース部と社長のルーン・アーレッジに伝えた。

アーレッジはABCニュースのトップでもあり、「マンデー・ナイト・フットボール」のエグゼクティヴ・プロデューサーでもあった。この夜のマイアミ・ドルフィンズとニューイングランド・ペイトリオッツはアーレッジが発砲事件のことを耳にしたときもまだ試合中だった。アーレッジはハワード・コセルとフランク・ギフォード にジョン・レノンの死を放送でニュースにするようにいった。はじめは不安がっていたコセルだったが、ギフォードにも説得され次第に放送する方向へと向かっていった。2人にこのニュースが伝えられたとき、同点のまま進んでいた試合はペイトリオッツが決勝点を決めるかもしれないという場面を迎えていのだ。放送席を準備するまでの30秒間、試合を映したまま次のようなニュースが流れた[31]

Cosell: ...but (the game)'s suddenly been placed in total perspective for us; I'll finish this, they're in the hurry-up offense.
Gifford: Third down, four. Foreman...it'll be fourth down. Cavanaugh will let it run down for one final attempt, he'll let the seconds tick off to give Miami no opportunity whatsoever. (whistle blows) Timeout is called with three seconds remaining, John Smith is on the line. And I don't care what's on the line, Howard- you have got to say what we know in the booth.
Cosell: Yes, we have to say it. Remember this is just a football game, no matter who wins or loses. An unspeakable tragedy confirmed to us by ABC News in New York City: John Lennon, outside of his apartment building on the West Side of New York City. The most famous perhaps, of all of The Beatles, shot twice in the back, rushed to Roosevelt Hospital, dead on arrival. Hard to go back to the game after that news flash, which, in duty bound, we have to take. Frank?
Gifford: (after a pause) Indeed, it is.[32]

シーンはこの夜テレビをみなかったので、オノ・ヨーコは自分の口からこのニュースを息子に伝えることができた。次の日、オノ・ヨーコはこんな話し方をした。「ジョンの葬式はしないから。ジョンは人類を愛していたし、祈っていた。同じ事をあの人にしましょうね(There is no funeral for John. John loved and prayed for the human race. Please do the same for him. Love, Yoko and Sean)[33]」。

それから

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この殺人事件は、レノンの大器(high profile)ゆえの暗殺だと考える人間をのぞけば、かつてないほどの規模でほとばしるような悲しみを世界中にもたらした[34] 。ビートルズ時代もソロになってからの曲も事件後の一ヶ月で急に売り上げが跳ね上がった。レノンの遺体はWestchesterのFerncliff Cemeterで火葬された。葬儀はおこなわれていない[35][36]。オノ・ヨーコはダコタ・ハウスのまわりに集い合唱する人に向かって、眠らずに歌を聞いていたといい/歌が眠らせてくれないといい(their singing had kept her awake)、次の日曜日にセントラルパークに再集合して黙祷するように頼んだ[37]。1980年12月14日、世界中の何百万と言う人々がオノ・ヨーコのもとめに答えて、10分を無言のうちにレノンを思い出して過ごした[38]。リヴァプールには3万人が、ニューヨークのセントラルパークには最多で22万5千人以上が集まった。発砲があった場所のすぐそばだった[38]。この十分間のために、ニューヨーク市のどのラジオ局も、放送を停止した[39]。殺人事件のあと、後を追ったビートルズのファンが少なくとも2人いたため、オノ・ヨーコは悲しむ人々にむけて絶望しないようにとひろく訴えた[40]。彼女は1981年に「Season of Glass」という1枚のアルバムを出している。カバーにはレノンの血が撥ねた眼鏡の写真が使われた。1997年に再びリリースされたアルバムには「Walking on Thin Ice」という曲が収録されていた。殺人が起こる一時間以上前にレコード・プラントでジョン・レノンがミキシングしたものだ[30]。その事件を起こしたチャップマンは1981年6月、責任能力がないことを訴えようとした[41][42]弁護士の助言に従わず[43]、自ら有罪を主張した[44]

判決は終身刑だったが、刑期については20年服役すれば仮釈放を求めることも可能だというものだった[45] 。チャップマンは2000年から2年ごとの面談があるたびに仮釈放の可能性を否定したま、いまもアッティカ州刑務所に収監されている[46][47]

記念碑

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鉄のカーテンの後ろにみえる記念碑(プラハの「レノン・ウォール」で 1981年8月)

アニー・リーボビッツが事件の日に撮った、妻を抱きしめる裸のレノンの写真は1981年1月22日の「ローリング・ストーン」誌で表紙を飾った。この号の大半がレノンの生と死を記念する記事、手紙、写真にあてられた[48]。2005年には米雑誌編集者協会によって過去40年間で最良の表紙に選ばれた[49]。ジョージ・ハリスンはトリビュートソングである「All Those Years Ago」を1981年に発表し、リンゴ・スターやポール・マッカートニーも参加した。マッカートニー自身も1982年のアルバム「Tug of War」で「Here Today 」をリリースして、ジョン・レノンをトリビュートした。レノンがチャートで1位をとった「Whatever Gets You thru the Night」に参加しているエルトン・ジョンは、作詞家のバーニー・トーピンと共に「Empty Garden (Hey Hey Johnny)」と名づけた曲でレノンをたたえた。1982年のアルバム「Jump Up!」では、全米のチャートで最高13位になっている[50]。チケットを売り尽くしたマディソン・スクエア・ガーデンのコンサートでは、オノ・ヨーコとシーンとステージで共演している[51]。1982年8月。クイーンは1982年のアルバム「Hot Space」の「Life Is Real」でレノンを追悼している。これはフレディ・マーキュリーが歌詞を書いている。

ストロベリーフィールズのモザイク画

1985年、ニューヨーク市はレノンがよく通ったダコタとセントラルパークをまっすぐつなぐエリアをストロベリーフィールズとして献地することを決めた。In a symbolic show of unity, countries from around the world donated trees and the city of Naples, Italy, donated the Imagine mosaic centerpiece.[52]

ケネディ国際空港にて

映画化

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事件から25年以上が経ち、ほぼ同時期にジョン・レノンの死をテーマにした2本の映画が公開された。「ジョン・レノンを撃った男」(2007年12月7日)はアンドリュー・ピディングトンが監督をつとめ、ジョナス・ボールがチャップマン役を演じた[53]。もう1本は「チャプター27」(2008年3月28日)で、J.P.シェファー監督のもとチャップマンを演じたのはジャレッド・レトである。ジョン・レノン役はマーク・リンゼイ・チャップマンという名の俳優だった[54]

脚注

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  1. ^ a b Police Trace Tangled Path Leading To Lennon's Slaying at the Dakota”. elvispelvis.com. 2007年12月20日閲覧。
  2. ^ a b Badman 2001, p. 271.
  3. ^ Hours After This Picture Was Taken John Lennon Was Dead”. Guardian Unlimited (2005年8月12日). 2007年7月26日閲覧。
  4. ^ Lucas, Dean (2007年). “Naked Lennon”. Famous Pictures Magazine. 2007年7月26日閲覧。
  5. ^ The Last Days of Dead Celebrities”. ABC, Inc.. 2007年12月26日閲覧。
  6. ^ Cocks, Jay (1980年12月22日). “The Last Day In The Life”. Time. http://www.time.com/time/magazine/article/0,9171,924600,00.html 2010年10月23日閲覧。 
  7. ^ a b Is That All You Want?”. Courtroom Television Network. 2008年5月4日閲覧。
  8. ^ “Descent Into Madness”. People. (1981年6月22日). http://www.people.com/people/archive/article/0,,20079581,00.html 
  9. ^ Buskin, Richard (2007年7月3日). “John Lennon Encounters Mark David Chapman”. Howstuffworks.com. 2008年5月6日閲覧。
  10. ^ a b c Badman 2001, p. 272.
  11. ^ Badman 2001, p. 270.
  12. ^ Ledbetter, Les (9 December 1980). “John Lennon of Beatles Is Killed”. New York Times. 
  13. ^ March 4, 1966: The Beginning of the End for John Lennon? Lynne H. Schultz, 2001. Retrieved December 26, 2006.
  14. ^ Jones 1992, p. 118.
  15. ^ a b Do It, Do It, Do It!”. Courtroom Television Network. 2008年5月4日閲覧。
  16. ^ CBS Evening News television report, 9 December 1980.
  17. ^ ABC News Nightline television report early in the morning of 9 December 1980. The "Mr. Lennon" and "combat stance" statements were made several times.
  18. ^ "Police Trace Tangled Path Leading To Lennon's Slaying at the Dakota" by Paul L. Montgomery, The New York Times, 10 December 1980, pp. A1,B6 (unverified quotes attributed to NYPD Chief of Detectives James T. Sullivan and in turn to an unnamed witness)
  19. ^ “I don't recall saying, 'Mr Lennon'”. Telegraph.co.uk (London). (2008年8月21日). http://www.telegraph.co.uk/news/newstopics/celebritynews/2593371/John-Lennon-murder-Killer-Mark-David-Chapman-gives-new-details-of-shooting.html 2008年8月21日閲覧。 
  20. ^ Transcript of 2008 parole hearing in which Chapman denies calling out "Mr Lennon"”. News.google.com. 2010年10月23日閲覧。
  21. ^ Transcript of 1981 competency hearing in which Chapman says he did not say anything to Lennon”. Jfkmontreal.com. 2010年10月23日閲覧。
  22. ^ Was John Lennon's murderer Mark Chapman a CIA hitman? Thirty years on, there's an extraordinary new theory”. Daily Mail (2010年12月4日). 2011年12月4日閲覧。
  23. ^ Montgomery, Paul L. (1981年2月9日). “Lennon Murder Suspect Preparing Insanity Defense”. The New York Times. http://query.nytimes.com/gst/fullpage.html?sec=health&res=9E00E1D8133BF93AA35751C0A967948260 2008年5月6日閲覧。 
  24. ^ Edwards, David (2005年12月3日). “Lennon’s Last Day”. Daily Mirror. 2008年5月4日閲覧。
  25. ^ “Lennon shot on way to see son”. Thestar.com (Toronto). (2007年6月10日). http://www.thestar.com/entertainment/article/223747 2007年12月20日閲覧。 
  26. ^ "Recalling the Night He Held Lennon's Still Heart", Corey Kilgannon, New York Times, 8 Dec. 2005
  27. ^ John Lennon Death Certificate”. JFKmontreal.com (2004年6月22日). 2009年12月6日閲覧。
  28. ^ Ingham 2006, p. 82.
  29. ^ "The Day John Lennon Died" ITv documentary, http://www.telegraph.co.uk/culture/tvandradio/8184924/The-Day-John-Lennon-Died-ITV1-review.html
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  44. ^ “Divine Justice”. Time. (1981年7月6日). http://www.time.com/time/magazine/article/0,9171,922589,00.html 
  45. ^ John Lennon killer Chapman denied parole - Entertainment - Celebrities - TODAY.com
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  54. ^ Emerson, Jim (2008年4月25日). “Chapter 27”. Rotten Tomatoes. 2011年8月7日閲覧。

参考文献

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関連文献

[編集]
  • Badman, Keith (2001). The Beatles After the Breakup 1970-2000: A day-by-day diary. Omnibus Press. ISBN 978-0711983076 
  • Seaman, Fred (1991). The Last Days of John Lennon. Birch Lane Press. ISBN 978-1559720847 
  • Bresler, Fenton (1990). Who Killed John Lennon. St. Martin's Press. ISBN 978-0312923679 
  • Cocks, Jay (1980年12月22日). “The Last Day in the Life”. Time 
  • David Rosenthal et al., "The Death and Life of John Lennon". New York, 22 December 1980.
  • Tom Mathews et al., "Death of a Beatle." Newsweek, 22 December 1980.

外部リンク

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