コンテンツにスキップ

劉源

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
劉源
プロフィール
出生: 1951年4月
出身地: 中華人民共和国の旗 中国北京市
職業: 軍人
各種表記
繁体字 劉源
簡体字 刘源
拼音 Líu Yuán
和名表記: りゅう げん
発音転記: リュウ ユェン
テンプレートを表示

劉源(りゅう げん、1951年4月 - )は、中華人民共和国解放軍の軍人、上将。父は元中華人民共和国主席である劉少奇

概要

[編集]

1951年北京市生まれ。原籍は湖南省。父は元中国第2代国家主席である劉少奇。母は六番目の妻にあたる王光美

文化大革命勃発当時は中学(日本での高等学校)在学中だったが、父が打倒の対象とされたことで、劉源も校内でつるし上げにあう[1]。過酷な日常から逃れようと、上山下郷運動(下放)が始まるとすぐに応募したが、山西省の下放先でも批判大会の対象とされ、ある日「そんなに俺が憎いなら、今この場で殺せ!だがその前に俺は死に物狂いで戦ってやる。俺を殺したい奴は、ひとりずつ前へ出ろ!」と絶叫してようやく攻撃が止まった[1]。農村の窮状に衝撃を受け、自らの境遇よりも深刻な祖国のために働く気持ちになり、やがて地元からの信頼を得て県長となった[1]。下放終了後に、北京師範学院(現・首都師範大学)歴史学部に入学した。3年生だった1980年、北京市海淀区人民代表大会に立候補したが、落選した[2]。卒業後は地方官を歴任したのちに武装警察・軍に転じる異色の経歴をたどった。軍事科学院政治委員などを経て2015年時点では総後勤部政治委員、解放軍上将であった。太子党と呼ばれる「二世政治家」の有力者としても名前を挙げられる存在である。習近平総書記と親しく、反米強硬派として知られる[3]。軍内の反腐敗闘争の火付け役も務め、徐才厚郭伯雄を批判して失脚への導火線となった[2]

中国共産党第17期(2007~2012年)および18期中央委員(2012年~)。2015年、満期定年による退役が発表された[4]

来歴

[編集]
  • 1951年 北京市で生まれる
  • 1968年 山西省へ下放
  • 1972年 「両親に会いたい」との手紙を毛沢東に送り、当局からの返信で父の死を知る
  • 1977年 北京師範学院に合格
  • 1980年 海淀区人民代表大会選挙に立候補するも落選 
  • 1982年 中国共産党入党、河南新郷県七里営公社副主任、副県長、県長
  • 1985年 鄭州市副市長
  • 1988年 河南省副省長
  • 1992年 武装警察部隊水電指揮部第二政治委員、副主任(兼任)
  • 1992年 武装警察の少将(少将警銜)に任じられる
  • 1998年 武装警察部隊副政治委員
  • 2000年 武装警察の中将(中将警銜)に昇進する
  • 2003年 中国人民解放軍に転任、軍の中将に任じられる
  • 2003年 総後勤部副政治委員
  • 2005年 軍事科学院政治委員
  • 2007年 中国共産党第17期中央委員
  • 2009年 解放軍上将に昇進
  • 2010年 総後勤部政治委員
  • 2012年 中国共産党第18期中央委員
  • 2015年 軍を退役

人物

[編集]
  • 近年深刻化している汚職・腐敗に対して厳しい態度でのぞんでいるとされるが、真偽は不明である。

脚注

[編集]

関連項目

[編集]

外部リンク

[編集]