折口信夫
誕生 |
1887年2月11日 大阪府西成郡木津村 |
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死没 |
1953年9月3日(66歳没) 東京都新宿区信濃町 |
墓地 | 石川県羽咋市 |
職業 | 民俗学者、国語学者、歌人 |
言語 | 日本語 |
国籍 | 日本 |
最終学歴 | 國學院大學国文科卒業 |
ジャンル | 民俗学、詩歌 |
ウィキポータル 文学 |
折口 信夫(おりくち しのぶ〈のぶを〉[注 1]、1887年〈明治20年〉2月11日 - 1953年〈昭和28年〉9月3日)は、日本の民俗学者、国文学者、国語学者であり、釈迢空(しゃく ちょうくう)と号した詩人・歌人でもあった。
折口の成し遂げた研究は、「折口学」と総称されている。柳田國男の高弟として民俗学の基礎を築いた。みずからの顔の青痣(あざ)[注 2]をもじって、靄遠渓(あい・えんけい=青インク、「靄煙渓」とも)と名乗ったこともある。
経歴
[編集]- 出生から修学期
1887年2月11日、大阪府西成郡木津村(現:大阪市浪速区敷津西1丁目・鷗町公園)に父秀太郎、母こうの四男として生まれた。1890年より木津幼稚園に通う。1892年、木津尋常小学校(現在の大阪市立敷津小学校)に入学。1894年、叔母えいから贈られた『東京名所図会』の見開きに初めて自作歌を記した。感謝の念篤く、後年『古代研究』にこの叔母への献詞を載せている。1896年、大阪市南区竹屋町にあった育英高等小学校に入学。
1899年4月、大阪府第五中学校(後の天王寺中学)に入学。中学の同級生には武田祐吉(国文学者)、岩橋小弥太(国史学者)、西田直二郎などがいた。1900年夏に大和の飛鳥坐神社を一人で訪れた。その折に、9歳上の浄土真宗の僧侶で仏教改革運動家である藤無染(ふじ・むぜん)と出会って初恋を知ったという説がある。富岡多惠子によると、迢空という号は、このとき無染に付けられた愛称に由来している可能性[2]があるという。
1901年、15歳になったこの年に父親から橘千蔭『万葉集略解』[注 3]を買ってもらった[3]。作歌にも励み、『文庫』『新小説』に投稿した短歌一首ずつが入選。しかし1902年に中学の成績が下がり、暮れに自殺未遂。1903年3月にも自殺未遂したが、「作歌多し」であった。1904年3月、卒業試験にて、英会話作文・幾何・三角・物理の4科目で落第点を取り、原級にとどまる。この時の悲惨さが身に沁みたため、後年、教員になってからも、教え子に落第点は絶対につけなかった。同じく後年、天王寺中学から校歌の作詞を再三頼まれたが、かたくなに拒み続けたと伝えられる。大和に3度旅行した際、室生寺奥の院で自殺を図った若き日の釈契沖に共感、死への誘惑に駆られた。
1905年3月、天王寺中学校を卒業。医学を学ばせようとする家族の勧めに従って第三高等学校受験に出願する前夜、にわかに進路を変えて上京し、新設の國學院大學の予科に入学。藤無染と同居する。この頃に約500首の短歌を詠んだ。1907年、國學院予科を修了し、本科国文科に進んだ。この時期國學院大學において国学者三矢重松に教えを受け、強い影響を受けた。また短歌に興味を持ち、根岸短歌会などに出入りした。1910年7月、國學院大學国文科を卒業。卒業論文は「言語情調論」であった。
- 今宮中学教員として
卒業後は大阪に戻り、1911年10月に大阪府立今宮中学校の嘱託教員(国漢担当)となった[4]。1912年8月に伊勢、熊野を巡る旅に出た。1913年12月「三郷巷談」を柳田國男主催の『郷土研究』に発表し、以後、柳田の知遇を得た。
- 再上京
1914年3月、今宮中学校を退職し、上京。折口を慕って上京した生徒達を抱え、高利貸の金まで借りるどん底の暮らしを経験したという[5]。1916年、30歳に時に國學院大學内に郷土研究会を創設。『万葉集』全20巻(4516首)の口語訳上・中・下を刊行。1917年1月、私立郁文館中学校教員となった。同年2月には「アララギ」同人となり、選歌欄を担当することになった。一方で、國學院大學内に郷土研究会を創設するなどして活発に活動した。
1919年1月、國學院大學臨時代理講師に就いた。また、万葉辞典を刊行。1921年7~9月、柳田國男から沖縄の話を聞き、最初の沖縄・壱岐旅行に出た。1922年1月、雑誌『白鳥』を創刊する。4月には國學院大學教授となり、穂積忠らを教えた[6]。
1923年6月、慶應義塾大学文学部講師となった。第2回目の沖縄旅行に出た。1924年1月、亡師三矢重松の「源氏物語全講会」を遺族の勧めで再興。後にこの会を慶應義塾大学に移し、没年まで活動を続けた。またこの年には「アララギ」を去って、北原白秋らと共に歌誌『日光』を創刊した。
1925年5月、処女歌集『海やまのあひだ』を刊行。1927年6月、國學院の学生らを伴って能登半島に採訪旅行し、藤井春洋の生家を訪ねた。1928年4月、慶應義塾大学文学部教授に昇格し、芸能史講座を開講した。1929年、川田順、斎藤茂吉、前田夕暮、松村英一、北原白秋らが設立した日本歌人協会(東京市本郷区駒込)の会員となった[7]。1932年、文学博士号を取得。日本民俗協会の設立にかかわり、幹事となった。
1935年11月、大阪木津の折口家から分家。第3回目の沖縄旅行。1940年4月、國學院大學の文学部講座に「民俗学」を新設。愛知県三沢の花祭り、長野県新野雪祭りを初めて見た。
1941年8月、中国へ旅し、北京にて講演。12月8日、太平洋戦争に突入し、藤井春洋は応召。1942年、『天地に宣る』を出版。1944年、藤井春洋は硫黄島に着任。春洋を養嗣子として入籍。1945年3月、大阪の生家が戦災により焼失。大本営が藤井春洋のいる硫黄島の玉砕を発表。8月15日の敗戦の詔を聞くと、箱根山荘に40日間籠った。
- 戦後
1948年4月、『古代感愛集』により日本芸術院賞を受賞[8]。12月には第1回日本学術会議会員に選出された。1949年7月、能登一ノ宮に戦死した春洋との父子墓を建立した。1950年と翌51年は宮中御歌会選者を拝命。
1953年7月初め箱根仙石原の別荘[注 4]に行くも健康がすぐれなかった。8月31日、衰弱が進み慶應義塾大学病院に入院。9月3日、胃癌により永眠。養子として迎え戦死した春洋とともに、気多大社がある石川県羽咋市一ノ宮町に建立した墓に眠る。また、折口家の菩提寺願泉寺(大阪市)に分骨が納められている。
受賞・栄典
[編集]民俗学研究者として
[編集]柳田國男との関係
[編集]柳田國男との間には以下のようなエピソードがあった。
1915年(大正4年)の『郷土研究』誌に載った論文で、互いに似通った折口と柳田の論文が前後して載せられるという事件があった。折口が昨年のうちに送ったものが採用されず、柳田の「柱松考」が3月号、折口の「髯籠の話」が4-5月号に載ったというものだが、それを後に振り返って折口が言った「先生の「柱松考」を先に見ていれば、わたしは「髯籠の話」など書かなかった」という言葉に、潔癖さ、厳しさが表れている。
そして柳田も「(折口君という人は)真似と受け売りの天性嫌いな、幾分か時流に逆らっていくような、今日の学者としては珍しい資質を具えている」とその点では認めていた。ただし「マレビト」を認めない柳田と折口の間に論争があったのも事実である[10]。両者は国学発展の祖に当たる賀茂真淵・本居宣長と同じく、教えを受けながらも正当だと思ったところは譲らず、真理の追求を磨く学者の関係を持っていたといえる。なお『遠野物語』(現行版は角川ソフィア文庫)に折口の跋文(おくがき)がある。
柳田は、折口より12歳年上で、1945年(昭和20年)夏の敗戦時には、共に60歳を越えていた。戦後にのぞみ、重い口調で柳田は折口に話しかけたという。「折口君、戦争中の日本人は桜の花が散るように潔く死ぬことを美しいとし、われわれもそれを若い人に強いたのだが、これほどに潔く死ぬ事を美しいとする民族が他にあるだろうか。もしあったとしてもそういう民族は早く滅びてしまって、海に囲まれた日本人だけが辛うじて残ってきたのではないだろうか。折口君、どう思いますか」その問いにしばらく両者深く思い沈んでいたという。折口には、18年間共にした養嗣藤井春洋の硫黄島玉砕という重い出来事があった。その追悼の念は徹底的であり、敗戦の詔を聞くと四十日間喪に服し、自分の死ぬまで遺影前の供養を欠かさなかったという。第二次大戦(太平洋戦争・大東亜戦争)で失った戦死者の鎮魂は大きな課題で、戦没者が生前に殉じる価値を見出そうとした皇国などといった概念も昭和天皇の人間宣言とともに潰え果てたのである。柳田も日本人の神や魂といった問題意識は共有していて、折口はその問題を、晩年の論考「民族史観における他界観念」に収斂させていくこととなる[11]。
柳田が民俗現象を比較検討することによって合理的説明をつけ、日本文化の起源に遡ろうとした帰納的傾向を所持していたのに対し、折口はあらかじめマレビトやヨリシロという独創的概念に日本文化の起源があると想定し、そこから諸現象を説明しようとした演繹的な性格を持っていたとされる。
歌人・国文学者として
[編集]歌人としては正岡子規の「根岸短歌会」、後「アララギ」に「釈迢空」の名で参加し、作歌や選歌をしたが、やがて自己の作風と乖離し、アララギを退会する。1924年(大正13年)北原白秋と同門の古泉千樫らと共に反アララギ派を結成して『日光』を創刊した。
- 迢空賞
迢空賞は1967年に折口信夫にちなんで設けられた短歌賞で、短歌界では最も権威ある賞とされている。
この節に雑多な内容が羅列されています。 |
- 中学校時代に出版されて間もない「国歌大観」を一夏掛け精読し、兄の友人であった加藤順三に「和歌の表現の至りつくしたのは、玉葉集・風雅集ですよ。」と語った[12]。
- 三島由紀夫の短篇『三熊野詣』に登場する国文学者の藤宮や[13][14]、舟崎克彦の長篇『ゴニラバニラ』に登場する民俗学者の折節萎(おりふし・しぼむ)は折口がモデルといわれている。
- 同性愛者(男色家)であり、以下のようなエピソードが伝わる。
- 折口は高弟の加藤守雄に同衾を強要しようとしたことがあった(未遂)。養子の折口春洋(旧姓藤井)は家計をすべて預かり、事実上の配偶者だった。折口春洋の死後は、1947年から岡野弘彦が書生として同居し、死期を看取った。
- このような折口の性的指向に対して柳田は批判的で、折口の前で加藤に向かって「加藤君、牝鶏(おそらく鶏姦の意)になっちゃいけませんよ」と忠告した[15]こともある。
- 折口自身は「同性愛を変態だと世間では言うけれど、そんなことはない。男女の間の愛情よりも純粋だと思う。変態と考えるのは常識論にすぎない」と述べている[16]。
- 『口ぶえ』という、男子中学生同士の恋を叙情的に描いた若い頃の小説がある。
- 折口が主査となり博士号を授与した、西角井正慶、高崎正秀、藤野岩友、今泉忠義、大場磐雄の高弟五人を指して折口信夫の五博士という。各博士たちは、折口の学問を継承し、各自の分野において優れた業績を残した。「五博士」という言い方は、折口自身が言い始めた。大場磐雄による西角井正慶の追悼文(「西角井正慶さんのみたまにささげる詞」『芸能』第13巻第2号(通巻144号) 1971年2月)には、「先生(引用者注・折口信夫)によつて学位を頂き、先生から五博士と呼んで下さつた仲間」と書かれている。
- 1931年(昭和6年)に石川県立大聖寺高等女学校の校歌を手がけたことを皮切りに20数校の校歌及び國大音頭の作詞を手がける[17]。
- 昭和の初め頃の数年間、コカインを常用していた。そのために嗅覚がほとんど失われていた。「まれびと」や「日本文学の発生」といった初期の代表的論文はコカインを常用していた時期に執筆したものである[18]。
- 三田文学
家族・親族
[編集]- 系譜
折口家は木津の願泉寺門徒の百姓であったが、曽祖父彦七の時から商家となり、生薬と雑貨を商った[19]。
- 祖父:造酒ノ介(みきのすけ)は元、大和の明日香村岡寺前の岡本善右衛門の八男であったが、同地の古社である飛鳥坐神社の累代の神主家飛鳥助信の養子となった上で、折口家に養子として入り、医を本業として従来の家業を兼ねた。
- 父:秀太郎は河内国の名主の家の次男で、折口家の養子となり医を継いだ。信夫が生まれて7年のち双生児の弟が誕生するが、実は母こうが生んだのではなくて、同居する叔母ゆうと父の秀太郎との間に生まれたのであった。こうした家庭内の愛情にかかわる葛藤も、信夫の心に深い陰影を刻んだ[19]。
- 長兄:医者の後を継いだ[3]。
(先妻) | |||||||||||||||||||||||||||||||||
彦次郎 | あゐ | ||||||||||||||||||||||||||||||||
彦七 | |||||||||||||||||||||||||||||||||
秀太郎 | 静 | ||||||||||||||||||||||||||||||||
順 | |||||||||||||||||||||||||||||||||
造酒ノ介 | |||||||||||||||||||||||||||||||||
こう | 進 | ||||||||||||||||||||||||||||||||
とよ | ゆう | 信夫 | |||||||||||||||||||||||||||||||
えい | 親夫 | ||||||||||||||||||||||||||||||||
つた | |||||||||||||||||||||||||||||||||
和夫 | |||||||||||||||||||||||||||||||||
著作
[編集]全集・著作集
[編集]- 『折口信夫全集 新版』(中央公論新社(全37巻別巻3)、1995-2002年)
- 『折口信夫全集 ノート編』(全18巻別巻1)、折口博士記念古代研究所編、中央公論社
- 『折口信夫全集 ノート編 追補編』(全5巻)[20]
- 『折口信夫芸能史講義 戦後篇』慶應義塾大学出版会(上・下)、2015-2016年
- 伊藤好英・藤原茂樹・池田光編、池田彌(弥)三郎による没年までの講義ノートを書籍化
- 『精選折口信夫』(全6巻) 岡野弘彦編・長谷川政春解題、慶應義塾大学出版会、2018-2019年
- 1巻 異郷論・祭祀論
- 2巻 文学発生論・物語史論
- 3巻 短歌史論・迢空短歌編
- 4巻 芸能史論
- 5巻 随想ほか・迢空詩編
- 6巻 アルバム
- 『釋迢空短歌綜集』河出書房新社、1987年
著名な作品
[編集]天皇・神道論
[編集]- 戦前
- 戦後
近年の文庫判
[編集]- 『古代研究』角川文庫
- 『日本文学の発生序説』角川ソフィア文庫、2017年[41]
- 『死者の書』角川ソフィア文庫、2017年[42]
- 『釈迢空全歌集』岡野弘彦編、角川ソフィア文庫、2016年
- 『釈迢空歌集』富岡多惠子編、岩波文庫、2010年
- 『折口信夫古典詩歌論集』藤井貞和編、岩波文庫、2012年
- 『歌の話・歌の円寂する時 他一篇」 岩波文庫、2009年
- 『死者の書・口ぶえ』岩波文庫、2010年[43]
- 『口訳万葉集』岩波現代文庫(上中下)、2017年[44]
- 『折口信夫』(近代浪漫派文庫 24) 新学社、2005年[45]
- 『折口信夫 1887-1953』(ちくま日本文学 25) 筑摩書房(文庫判)、2008年
- 『折口信夫集 神の嫁 文豪怪談傑作選」 東雅夫編、ちくま文庫、2009年
- 『折口信夫文芸論集』安藤礼二編、講談社文芸文庫、2010年
- 『折口信夫天皇論集』安藤礼二編、講談社文芸文庫、2011年
- 『折口信夫芸能論集』安藤礼二編、講談社文芸文庫、2012年
- 『古事記の研究』中公文庫、2019年[46]
代表歌
[編集]春のことぶれ 卒業する二兎人に
- 道なかに人かへりみずたちつくす道祖神とわれとさびしと言はむ
- 櫻の花ちりぢりにしもわかれ行く遠きひとりと君もなりなむ 今昔秀歌百撰83。選者:山本直人(東洋大学講師)
- 葛の花踏みしだかれて、色あたらし。この山道を行きし人あり (海やまのあひだ)
- いきどほる心すべなし。手にすゑて、蟹のはさみをもぎはなちたり (海やまのあひだ)
- 水底に、うつそみの面わ沈透(シヅ)き見ゆ。來む世も、我の寂しくあらむ (海やまのあひだ)
校歌(作詞)
[編集]- 栃木県立茂木高等学校校歌
- 福岡県立東筑高等学校校歌
- 青森県立八戸工業高等学校校歌
- 愛知県立瀬戸高等学校校歌
- 石川県立羽咋高等学校校歌
- 石川県立金沢二水高等学校校歌
- 石川県立大聖寺高等学校校歌
- 宮城県佐沼高等学校校歌
- 宮城県塩釜高等学校前校歌
- 霞ケ浦高等学校校歌
主な評論・評伝
[編集]関連文献は数百冊あり、下記はあくまで一部、品切絶版を多く含む。
- 門下生の回想・研究
- 『折口信夫回想』池田彌三郎・加藤守雄・岡野弘彦編、中央公論社、1968年
- 『折口信夫伝 その思想と学問』岡野弘彦著、中央公論新社、2000年
- 文庫化 ちくま学芸文庫、2020年
- 『粉河寺の朝の少年折口』岡野弘彦著、中公クラシックス、2002年[47]
- 『最後の弟子が語る 折口信夫』岡野弘彦著、平凡社、2019年
- 『折口信夫とその古代学』西村亨著、中央公論新社、1999年
- 『折口名彙と折口学』西村亨著、桜楓社、1985年
- 『釈迢空・折口信夫の人生』塚崎進著、桜楓社、1987年
- 『折口信夫伝 釈迢空の形成』加藤守雄著、角川書店、1979年[48]
- 『迢空・折口信夫研究』池田彌三郎・加藤守雄、角川書店、1973年[49]
- 『池田彌三郎著作集 7 折口信夫研究』 角川書店、1979年
- 『私説折口信夫』池田彌三郎著、中公新書、1972年 入門書
- 『折口信夫 まれびと論』(日本民俗文化大系 2)池田彌三郎編著、講談社、1978年 著作抜粋と解説
- 『まれびとの座 折口信夫と私』池田彌三郎著、中央公論社、1961年。中公文庫、1977年 回想記・日記
- 『わが幻の歌びとたち 折口信夫とその周辺』池田彌三郎著、角川選書、1978年[50]
- オンデマンド版 2009年
- 『孤影の人 折口信夫と釈迢空のあいだ』池田彌三郎著、旺文社文庫、1981年
- 『柳田国男と折口信夫』池田彌三郎・谷川健一著、思索社、1980年[51]
- 岩波同時代ライブラリー、1994年
- 『折口信夫事典』 西村亨編、大修館書店、1988年
- 増補版1998年
- 『迢空・折口信夫事典』 有山大五・石内徹・馬渡憲三編、勉誠出版、2000年
- 『折口信夫・釈迢空 その人と学問』 國學院大學折口博士記念古代研究所・小川直之編
- おうふう、2005年。ISBN 4273033631 没後50年記念出版、9名10編の論考
- 折口に関する論考集
- 『折口信夫 日本文学研究資料叢書』 同刊行会編・有精堂出版、1972年
- 新版1989年
- 『現代詩手帖 臨時増刊 特集折口信夫・釋迢空』1973年6月号、思潮社
- 『短歌 臨時増刊号 迢空・折口信夫特集』1973年11月号、角川書店
- 『折口信夫 人と思想』 谷川健一編、三一書房、1974年
- 『折口信夫 文芸読本』河出書房新社、1976年
- 新版 1984年
- 『別冊国文学 折口信夫必携』 岡野弘彦・西村亨編、学燈社、1987年
- 新版 1993年
- 『柳田国男と折口信夫 学問と創作の間 日本文学研究資料新集』高橋広満編、有精堂出版、1989年
- 『谷川健一全集 第19巻 人物2 折口信夫 ほか』 冨山房インターナショナル、2008年
- 『現代思想 総特集 折口信夫』臨時増刊2014年4月号、青土社
- 安藤礼二 藤井貞和 小松和彦ほか
- 主に文学者たちの評伝研究
- 『折口信夫対話』池田彌三郎・加藤守雄ほか編、角川選書、1975-1978年[52]
- 日本の詩歌
- 古典と現代
- 万葉集輪講
- 改題『折口信夫対話集』安藤礼二編・解説、講談社文芸文庫、2013年
- 『折口信夫坐談』戸板康二著、中央公論社、1972年[53]
- 文庫化:中公文庫
- 『釈迢空』山本健吉著、角川選書、1972年[54]
- 『私の折口信夫』穂積生萩著、中公文庫、2001年
- 『物語の始原へ 折口信夫の方法』山折哲雄著、小学館、1997年
- 『執深くあれ 折口信夫のエロス』山折哲雄・穂積生萩著、小学館、1997年[55]
- 『折口信夫の詩の成立 詩形/短歌/学』藤井貞和著、中央公論新社、2000年
- 藤井貞和 『釈迢空 詩の発生と<折口学>私領域からの接近』 講談社学術文庫、1994年
- 『生涯は夢の中径 折口信夫と歩行』吉増剛造著、思潮社、1999年
- 『釋迢空ノート』富岡多恵子著、岩波書店、2000年
- 岩波現代文庫、2006年
- 富岡多恵子・安藤礼二 『折口信夫の青春』 ぷねうま舎、2013年
- 『神々の闘争 折口信夫論』安藤礼二著、講談社、2004年
- 『折口信夫』安藤礼二著、講談社、2014年
- 『歌の子詩の子、折口信夫』持田叙子著、幻戯書房、2016年
- 『折口信夫 秘恋の道』持田叙子著、慶應義塾大学出版会、2018年
- 『折口信夫 民俗学の場所』伊藤好英著、勉誠出版、2016年
- 『折口信夫 東アジア文化と日本学の成立』辰巳正明著、笠間書院、2007年
- 『釈迢空 折口信夫論』奈良橋善司著、おうふう、2003年
- 『折口信夫 日本の作家100人、人と文学』石内徹著、勉誠出版、2003年
- 『折口信夫 いきどほる心 再発見日本の哲学』木村純二著、講談社、2008年
- 講談社学術文庫、2016年
- 『魂の古代学 問いつづける折口信夫』上野誠著、新潮選書、2008年
- 改題『折口信夫 魂の古代学』 角川ソフィア文庫、2014年
- 『折口信夫的思考 越境する民俗学者』上野誠著、青土社、2018年
- 『折口信夫 霊性の思索者』林浩平著、平凡社新書、2009年
- 『折口信夫 日本の保守主義者』植村和秀著、中公新書、2017年
- 『折口信夫 神性を拡張する復活の喜び』斎藤英喜著、ミネルヴァ書房〈日本評伝選〉、2019年
- その他
- 『折口信夫紀行 武田太郎写真集』風書房、1974年
- 増訂版『折口信夫の世界 回想と写真紀行』 芸能学会編、岩崎美術社、1992年
- 『折口信夫と古代を旅ゆく』 芳賀日出男写真・解説、慶應義塾大学出版会、2009年
- 『写真でみる折口信夫の世界』 芳賀日出男、角川学芸出版〈角川ソフィア文庫〉、2017年
- 『ビデオ・学問と情熱17 折口信夫』 岡野弘彦監修 紀伊國屋書店、2000年
- DVD版『学問と情熱 折口信夫 人間を深く愛する神ありて』 同上、2007年
- 『精選折口信夫VI アルバム』 岡野弘彦編、國學院大學折口博士記念古代研究所監修、慶應義塾大学出版会、2019年
折口信夫が登場する作品
[編集]- 小説
- 『猿丸幻視行』(井沢元彦)
- 大塚英志『木島日記』(角川書店:2000年7月15日初版発行〈2000年7月14日発売〉 ISBN 4-04-873234-X[56]、角川文庫:2003年3月25日発売 ISBN 4-04-419112-3[57]、角川文庫改版:2017年9月23日発売 ISBN 978-4-04-106268-5[58]。初出はKADOKAWAミステリ1999年11月号、12月号、2000年1月号、3月号〜5月号) - 第22回吉川英治文学新人賞候補作。
- 大塚英志『木島日記 乞丐相』(角川書店:2001年11月10日初版発行〈2001年11月16日発売〉 ISBN 4-04-873327-3[59]、角川文庫:2004年3月25日発売 ISBN 4-04-419118-2[60]、角川文庫改版:2017年9月23日発売 ISBN 978-4-04-106269-2[61]。初出はKADOKAWAミステリ2000年12月号〜2001年6月号) - 巻末に「キャラクターファイル」が収録されている。
- 大塚英志『木島日記 もどき開口』(角川書店:2017年11月2日発売 ISBN 978-4-04-104221-2[62]。初出は『怪』vol.0026〈2009年4月〉~vol.0047〈2016年3月〉)
- 大塚英志『木島日記 うつろ舟』(星海社:2022年7月28日発売 。初出は『KADOKAWAミステリ』2002年4〜5、7〜11月号、2003年1、3月号)
- 大塚英志『木島日記 もどき開口』 上巻(星海社:2023年4月25日発売 ISBN 978-4065316207 [63]。初出は角川書店。巻末にスピンオフ新作「根津しんぶん」収録)
- 大塚英志『木島日記 もどき開口』 下巻(星海社:2023年4月25日発売 ISBN 978-4065316214 [64]。初出は角川書店。巻末に初期設定小説「人喰い異聞」収録)
- 漫画
- 大塚英志・原作 + 森美夏・画『木島日記』 新装版:角川書店(角川コミックス・エース、装幀:鈴木成一)、全3巻
- 上:2009年4月28日発行 ISBN 978-4-04-715161-1[65]
- 中:2009年4月28日発行 ISBN 978-4-04-715196-3[66]
- 下:2009年4月28日発行 ISBN 978-4-04-715227-4[67]
- 『月に吠えらんねえ』(清家雪子)全11巻 講談社
主な引用文献
[編集]- 『新潮日本文学アルバム26 折口信夫』 岡野弘彦解説、新潮社、1985年 - 入門書
- 加藤守雄『わが師 折口信夫』 文藝春秋、1967年。朝日文庫、1991年12月 - 回想
- 岡野弘彦『折口信夫の晩年』 中央公論社、1969年。中公文庫、1977年・復刊1991年。慶應義塾大学出版会、2017年
- 岡野弘彦『折口信夫の記』 中央公論社、1996年
外部リンク
[編集]- 折口信夫:作家事典
- 折口 信夫:作家別作品リスト - 青空文庫
- 大阪市:大阪市文学碑
- 大阪市浪速区:「折口信夫(おりくちしのぶ)生誕の地」の碑と文学碑
- 折口信夫(おりくちしのぶ)父子 ゆかりの地/羽咋市公式ホームページ
- 「折口信夫、戦争と平和」 折口信夫会+多摩美術大学芸術人類学研究所共催シンポジウム - Higher Education Video Podcast - Podcast.tv - ウェイバックマシン(2015年1月8日アーカイブ分)
脚注
[編集]- 注釈
- 出典
- ^ a b 岩橋小弥太「折口信夫博士の思出」、『國學院雑誌』69巻11号(1968年11月) p.25
- ^ 富岡多惠子『釋迢空ノート』
- ^ a b 芳賀日出男『折口信夫と古代を旅ゆく』慶應義塾大学出版会 2009年
- ^ 天文学者の萩原雄祐は府立今宮中学校時代に折口に師事した。
- ^ 加藤守雄『わが師 折口信夫』118頁
- ^ 『穂積忠』 - コトバンク
- ^ 『日本歌人協会』《文芸年鑑 昭和5年版》、409頁 。
- ^ 「朝日新聞」1948年4月29日(東京本社発行)朝刊、2頁。
- ^ 『朝日新聞』1957年2月28日(東京本社発行)朝刊、11頁。
- ^ 折口信夫『古代研究I』12~13頁
- ^ 折口信夫『古代研究I』14~20頁
- ^ 折口信夫『歌の話・歌の円寂する時 他一篇』解説岡野弘彦(岩波文庫、2009年)
- ^ 『殉教』解説高橋睦郎(新潮文庫、1982年、改版2004年)
- ^ 佐藤秀明『日本の作家100人 三島由紀夫』(勉誠出版、2006年)
- ^ 『わが師 折口信夫』 204-205頁には「土間に下りていた折口先生の表情がみるみる蒼白になった。じっとうつむいたまま、立ちすくんでいられる。…“柳田先生はいつもぼくをいじめなさる。ぼくのだいじにしている弟子を、みんなとってしまわれる”ほとんど泣きべそをかくような声であった」という記述がある
- ^ 『わが師 折口信夫』 208頁。
- ^ 東筑高校校歌について考える 東京東筑53期の会ホームページ、福岡県立東筑高等学校の作詞については折口によるものではないという異説がある
- ^ 『折口信夫の記』P230, 岡野弘彦、中央公論社, 1996、『折口信夫の晚年』P76ほか、岡野弘彦、中央公論社, 1977
- ^ a b 『新潮日本文学アルバム 26 折口信夫』より
- ^ 併せて約18年かけて刊行。
- ^ 最晩年刊の著作。
- ^ 晩年の講義録。
- ^ 『歴史教育』第3巻第8号、歴史教育研究會。1928年12月
- ^ 『土俗と伝説』第1巻第1-2号、文武堂。1918年8月
- ^ 『郷土科学講座1』、郷土科学研究会。1931年9月
- ^ 上代文化研究会公開講演会筆記
- ^ 『上代文化』第7号、上代文化研究会。1931年12月
- ^ 『東京日日新聞』、東京日日新聞社。1933年12月
- ^ 『改造』第14巻第1号、改造社。1933年1月
- ^ 『表現』第2巻第4号、表現社。1933年4月
- ^ 第一放送。1946年6月。
- ^ 『民俗学の話』、共同出版社。1949年6月
- ^ 関東地区神職講習会講演筆記。1946年8月
- ^ 神社新報社、1947年10月
- ^ 『思索』第3号。1946年。
- ^ 『神社新報』第27号、神社新報社。1947年
- ^ 神社本庁創立満一周年記念講演会筆記
- ^ 『神社新報』第27号、神社新報社。1947年
- ^ 『古典の新研究』第1輯、角川書店。1952年10月
- ^ 新版の解説は安藤礼二が担当。
- ^ 注解は井口樹生、新版解説は三浦雅士が担当。
- ^ 注解は池田彌三郎、新版解説は持田叙子が担当。
- ^ 注・解説は安藤礼二。
- ^ 解説持田叙子。
- ^ 歴史的仮名づかいで表記。
- ^ 解説は三浦佑之が担当。
- ^ 解説に「古代研究I 祭りの発生」あり。
- ^ 評伝研究。
- ^ 弟子2人の対話集。
- ^ 日記。
- ^ 2人の対話集。
- ^ 谷崎潤一郎、川端康成等との対談など。
- ^ 折口の片言隻句を記述。
- ^ 弟子の一人でもある。
- ^ 対話集
- ^ “「木島日記」 大塚 英志 - KADOKAWA”. KADOKAWA. 2022年1月30日閲覧。
- ^ “「木島日記」 大塚 英志 - KADOKAWA”. KADOKAWA. 2022年1月30日閲覧。
- ^ “「木島日記」 大塚 英志 - KADOKAWA”. KADOKAWA. 2022年1月30日閲覧。
- ^ “「木島日記 乞丐相」 大塚 英志 - KADOKAWA”. KADOKAWA. 2022年1月30日閲覧。
- ^ “「木島日記 乞丐相」 大塚 英志 - KADOKAWA”. KADOKAWA. 2022年1月30日閲覧。
- ^ “「木島日記 乞丐相」 大塚 英志 - KADOKAWA”. KADOKAWA. 2022年1月30日閲覧。
- ^ “「木島日記 もどき開口」 大塚 英志 - KADOKAWA”. KADOKAWA. 2022年1月30日閲覧。
- ^ “「木島日記 もどき開口 上巻」 大塚 英志 - 星海社”. 星海社. 2023年4月25日閲覧。
- ^ “「木島日記 もどき開口 下巻」 大塚 英志 - 星海社”. 星海社. 2023年4月25日閲覧。
- ^ “「木島日記 上」 大塚 英志 - KADOKAWA”. KADOKAWA. 2022年1月30日閲覧。
- ^ “「木島日記 中」 大塚 英志 - KADOKAWA”. KADOKAWA. 2022年1月30日閲覧。
- ^ “「木島日記 下」 大塚 英志 - KADOKAWA”. KADOKAWA. 2022年1月30日閲覧。
関連項目
[編集]- 折口信夫
- 19世紀の歌人
- 20世紀の歌人
- 19世紀日本の詩人
- 20世紀日本の詩人
- 19世紀日本のノンフィクション作家
- 20世紀日本のノンフィクション作家
- 19世紀日本の民俗学者
- 20世紀日本の民俗学者
- 19世紀の国学者
- 20世紀の国学者
- 日本文学研究者
- 19世紀日本の言語学者
- 20世紀日本の言語学者
- 日本語学者
- 日本の宗教学者
- 日本の文学研究者
- 日本芸能研究者
- 19世紀日本の小説家
- 20世紀日本の小説家
- 日本のLGBTの著作家
- LGBTの詩人
- ゲイの学術関係者
- 日本藝術院賞受賞者
- 國學院大學の教員
- 慶應義塾大学の教員
- 日本の中等教育の教員
- 日本文学報国会の人物
- 大阪府立天王寺高等学校出身の人物
- 國學院大學出身の人物
- 大阪市出身の人物
- 胃癌で亡くなった人物
- 1887年生
- 1953年没