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柳本柳作

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
柳本柳作
生誕 1894年1月9日
日本の旗 日本 長崎県平戸市
死没 (1942-06-05) 1942年6月5日(48歳没)
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 ミッドウェー島近海
所属組織  大日本帝国海軍
軍歴 1916 - 1942
最終階級 海軍少将
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柳本 柳作(やなぎもと りゅうさく、1894年明治27年)1月9日 - 1942年昭和17年)6月5日)は、日本海軍軍人。最終階級は海軍少将

略歴

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長崎県平戸市出身。旧制長崎県猶興館中学校より海軍兵学校第44期入校。入校時成績順位は100名中第66位、卒業時成績順は95名中第21位。大正14年12月海軍大学(甲種25期)入学。昭和2年11月卒業。同期生のすべてが将官になった珍しいクラスであった。

幼少の頃から成績優秀だったが、実家が富裕ではなかった為に旧制中学校卒業と同時に母校の尋常小学校で代用教員を務め、貯財した上で翌年改めて海軍兵学校に入校するという苦労を強いられている。柳本家は伊勢神宮から平戸に遣わされた神官の家系だったという。

軍令部第二部第三課長在任中、日独伊三國間同盟條約締結に軍令部在勤課長職の大多数が賛成だったなか、橋本象造第二部第四課長と共に締結に反対した。海軍軍備計画を所轄する軍令部第三課長時代、レーダーに関心をもつなど先進的・合理的な頭脳の持ち主だった。ただしレーダーの開発を推進することは無く、その点を惜しむ声がある[1]。また井上成美が軍令部の軍備計画を「余りにも旧式」と批判したことが知られているが、この批判された軍備計画の主務課長であったのが柳本である[2]

太平洋戦争勃発直前の1941年(昭和16年)10月6日に空母蒼龍艦長を拝命しハワイ作戦ウェーク島攻略作戦インド洋作戦等の一連の作戦に参加する。しかしミッドウェー海戦米軍急降下爆撃機から投下された爆弾三発が「蒼龍」に命中し大破炎上、沈没直前に総員退艦命令を発令するが、柳本自身は退艦を潔しとせず艦橋に残り、運命を共にした。「蒼龍」沈没により戦死認定を受け、翌年戦死公表と同時に海軍少将に特別進級した。なお、この海戦で3空母なき後も奮闘し、その後自沈した飛龍の艦長加来止男(戦死後少将)は海軍大学(甲種25期)の同期生である。(加来止男もまた、司令官山口多聞と共に退艦を拒否し、艦と運命を共にしている。)

人物像

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「蒼龍」に総員退艦命令が出た後、柳本は一人艦橋に残った。飛行甲板に降りて退艦用意をしていた「蒼龍」飛行長楠本中佐は何としても艦長を艦と共に死なすまいと説得を続けたという。その間に艦橋にも火の手が回り炎上し始めた。しかし、柳本は頑として首を縦に振らず、そのうち炎で半身に火傷を負っていたという。窮した楠本は相撲の心得のある乗組員に命じて無理矢理艦長を艦橋から連れ出そうとした。しかし、炎を掻い潜って艦橋に向かった乗組員が柳本に「艦長、お迎えに参りました」と近寄ると、「何だ!お前は!」と物凄い鉄拳をその乗組員の頭に放ちあくまでも退艦を拒否した。仕方なくその乗組員は艦橋を出て楠本に顛末を報告し、楠本も遂に救出を断念したという。柳本はその後最後に退艦する乗組員を艦橋から見送った後、「蒼龍、万歳」を連呼しながら炎渦巻く艦橋に飛び込んでいったという。乗員達はブリッジに残る柳本を顧みて業火の中の壮絶な姿が印象的だったという。[3]

年譜

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栄典

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  • 勲二等旭日重光章 - 1943年(昭和18年)5月27日

脚注

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  1. ^ 『太平洋戦争名将勇将総覧』P121。著者は妹尾作太夫。なお同書のこの記述は『柳本柳作』における同期生中堂観恵の記述からの引用である。
  2. ^ 『井上成美』P289
  3. ^ 佐藤和正『太平洋海戦2 激闘篇』(講談社、1988年) ISBN 4-06-203742-4

参考文献

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関連項目

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